絶対無

以前に「無の存在」について議論した。今回は「絶対無」について少し考えてみる。とはいうものの「無」に直接関係する話ではなく、ただ表現の言語的な感覚について考えるだけである。

「絶対無」って極めて日本語的な言葉だろうと思う。英語を話す友人の話だが、感覚的に理解が難しい日本語のひとつとして「なさすぎる」を挙げていた。理由は、「無い」はゼロである。それが「過ぎる」と言う感覚が理屈に合わないということであった。おそらく英語にはその感覚がないのだろう。なるほど、その説明をされたらなんとなく言いたいことはわかる。でも、私たち日本人は「なさすぎる」を理解する。だから、「絶対無」の感覚も、ゼロである「無」を「絶対」で強調する感覚が極めて日本語的だと感じるのである。では、「絶対無」をどのように英訳するのであろうか?これも、機械的な翻訳はおそらくできない。なぜなら、日本語でもこの言葉の説明がひとつとは限らないからである。

かたち論」で「色即是空」について書いた。人によってこの言葉の捉え方は違うだろう。だから、たとえ辞書に” all is vanity”とあったとしても、それをまる覚えしたら済むということでは無い。”all is vanity”にしても、”form is emptiness“にしても、”matter is void“にしても、「形・物は空虚である」くらいの意味にしかならないだろうし、それでは「色即是空」の一面しか表現できていない。また、「色即是空」という言葉の意味は単純に訳出できる物でも無い。ためしに、「色即是空」について周囲の人に意味を問いかけてみればいい。おそらくその説明は人によってまったく異なるだろう。ちなみに、「かたち論」の中で色即是空について議論しているが、この論でいけば、多くの仏教書に書かれている色即是空の説明は不正解となろう(あくまでも理屈の話であって、そう主張しているわけでは無い)。なんと言っても、般若心経を理解することは「空」を理解することだと言われているので、それを一文の英語で表そうとすること自体が無謀ではなかろうかと思う。

表面的に1かゼロの制御で動いているように見える分子の作用を、この「なさすぎる」の感覚によって我々日本人は考えているわけで、これが、「日本語で科学することと英語で科学することの質的な違い」だと常々私が書いていることのひとつの意味である。

と、ごちゃごちゃ考えてきて、ふと気づいたのだが今日は「お花まつり」だな。お釈迦様がこの文章を書かせたのかも・・・。