オーガナイザーの本

両生類の原腸形成運動について新しい説明が必要だと言い続けている。両生類を中央に据えることによって原策動物から脊椎動物羊膜類まですべての原腸形成が統一的に説明できると考えている。この考えは、今のところ橋本の脳の中にしかない(と思っている)。だからこれまでのところをまとめたいし、ここから発展もさせたい。そのために今、少しずつ思考を書き出している。とは言っても、ふとその時に頭に浮かんだことをその辺にある紙に書き殴っているだけだが、これがなかなか良い頭の体操になる。乱雑に書き出しているだけなのだが、大きな紙にいろいろと書いていると、今まで思っても見なかったことが繋がってくる。これまで普通に理解していたと思っていた知識同士の中に新しい関係性が見えてくるのだ。こういう落書きをたくさん積み重ねていけば一つの体系になると感じる。こうやって、読み物としてまとめようと思っている。

これまでもこういうことを試みたことがあったが、まったく進まなかった。外部から執筆を頼まれて物理的制約の元に幾つか書いたものはあったが、文字数の制限とかあって深い議論には至らなかったし、どこかを深く考え始めると思考はどんどん分岐していって、それらが別の知見につながったりとまとまるどころか放散していくだけで、毎回思考の途中で諦めていた。しかし、いま「思考の地図」のようなものを描き始めている。大きな紙にいろいろと書いていると、多岐にわたる思考が別の思考と繋がりを見せ始めている。これらを線で繋げてみるとただ放散しているように思っていた思考が別のものと繋がって新しい形として収斂していく。それがあたかも地図のように見えてくる。ふと思ったことを書いているだけだから、思考は発生にとどまらない。発生現象を考えながら気づくと進化の深いところに至る。これがおもしろい。

先日も書いたことだが、自分に制約を課すことがなくなった。使い古された表現になるのだが、観念的に言えば何かから精神が解放されたからなのだろうかとも思う。今までは、「思考をまとめること」は「人様にお見せすること」と同義だった。もう二十年以上前から、「オーガナイザーの本」を書いてみたいと言い続けてきた。しかし今は、まとまった思考を誰かに見せようとは思っていない。知識をつなげる道を書いていく過程で抜け道とか近道とかを発見することが、ただただ面白いからやっているだけにすぎない。書き殴った何枚もの紙をベッドの上に撒き散らして、寝る時にあらためて見返している。そこに新たな発見がある。何だろう、科学の楽しさってこういうところにあるんじゃないかとすら思う。集中して、気づいたら何時間も経っていることもあるが、ある瞬間にそれらを放り出してまったく別の書き物を始めたり、あるいは本を読んだり映画を見たりする。その時にやりたいことをやりたいだけやれる開放感がすばらしい。過去に出会った尊敬すべき先輩たちが「早く引退して執筆活動をしたい」と言っておられたのが理解できたように感じる。私がやりたいことは「執筆活動」ではないのだが、それは第三者に理解してもらえる形で文章としてまとめるか、自分だけがわかる形で体系化するだけの違いで、両者は質的には同等のことなのかもしれない。まだ始まったばかりだが、この時間が続くことを天に感謝したい。

実はこういう「ああでもない、こうでもない」という思索の遊びを複数の人としてみたいという願望は以前からあった。目的もなく、車座になっていろんなことを考えていくだけの集まりを持ちたいと思っていた。同じものを見ていても感じ方が異なるように思考も人によってまったく異なる。一人の思索も楽しいが、どうしても堂々巡りしていく。だから、複数の人とごちゃごちゃ話し合えば、橋本一人では考えに至らなかった方向の議論がいくつも出てくると思う。思考に広がりが出てくるし深みも与えられるだろう。それぞれが持っている知識や考え方は、その人の人生経験に完全に依存するだろうから、年寄りの方が若者よりも知識の幅が広いのは当然のことだ。だから、知識は互いに補い合えばいい。年齢や経験は不問で、とにかくじっくり考えることが好きな人と話したいなあと思う。ただ、この集まりを開くことの難しさは「目的がない」ところである。何時間も費やして、何の進展もないことだってあるだろうし、それがむしろ普通だと思う。わざわざ時間を作って何の成果も得られないことに意味を見出せる人がどれだけいるのだろう?ここが大きな問題なのだ。「何の成果も得られない」と書いたが、そこで行なわれた議論や論理の道筋は新しい経験として脳に刻まれると思う。自分では思いつかない思考を聞くことができる意味はかなり重要だと思っている。問題は、その「意味」が目に見えないことなのだ。そして、これまでの自分自身を顧みても、議論や論理を純粋に楽しめていたかと考えると極めて怪しいことに気付かされる。やはり何らかの成果を求めていたのは否めない。だから、この論理を純粋に楽しめることができる達観した人がどれだけ集められるのかが大問題なのだ。