老害?
礼儀作法ってその国の文化の中軸の一つだと思っている。ただ、最近では、その礼儀作法の話をすると若い人から嫌がられると聞く。食事の最初に「いただきます」をいう。食事の最後に「ごちそうさま」をいう。これは、「自分が礼儀作法を知っている」ことをひけらかしたいからいうのではない。食事ができたことに感謝し、食事を作ってくれたことに感謝し、野菜や肉・魚などの食事の材料を整えてくれた様々な方々に感謝する気持ちから自然に生じる作法だと思う(ごちそうさまは漢字表記で「ご馳走様」なので、「馳せ」「走って」材料を整え調理をしてくれたその人に対する感謝の気持ちが強いのかもしれないが・・・)。だから、何も皆に見えるところで大声で「いただきます」「ごちそうさま」と自己主張をする必要など全くない。誰にも見られないところ、例えば机の下に隠して手を合わせ、小声(心の中で)で「いただきます」というので構わないし他人に強制するものでもない。これは心の問題なのだから。
他人に強制するものではないというのなら、やりたくない人はやらなくても構わないじゃないか。なのになぜこんな小うるさいことを言うのだと感じられるかもしれない。まあ、ここがわたしの面倒くさいところなのだが、食事の際に「いただきます」「ごちそうさま」を言わない人を見ると、「感謝の気持ちを持たない人」にわたしには映るのだ。また、そういう家庭で育ってきたのだろうなとも思ってしまう。だから、ご両親の名誉のためにも、特に若い人には「いただきます」「ごちそうさま」という習慣をつけてほしいと思う。繰り返すが、わたしの価値観が特別なのであれば無視してくださっても構わないのだが、それでもわたしのように感じる人は少なからずいる。そんな人には認めてもらわなくても良いと言われたらそれまでだが、でも本当の自分を知ってもらう前に「無礼者」「不躾」だと思われるのは勿体無いだろう。まあ、こう言うと、礼儀作法を損得勘定で語っているのかもしれないが、芸術でも形の模倣から始まるのだから、最初はそれで良いじゃないか。
いつも興味深いお話を提供してくださいましてありがとうございます。
わたしは「いただきます」「ごちそうさま」をいうようにしつけられましたが、守っていませんでした。
医師として仕事をするようになってからはとにかく食事排泄を短時間で終わらせて仕事に走るという生活でした。
年を取るにつれて「自分が健康でなければ仕事はできない」と気づき、自分の体を楽にするようにしました。すると、早食いは体が欲していない、社会が医師に臨んでいることだと気づきました。それから食事を味わうようになりました。すると、食事は私一人では作れないことに気づきました。料理する人がいて、野菜を作るひと、牛や豚を育てる人、屠殺して食肉にする人、運ぶ人など多くの人々のおかげで、今食べられることに気づきました。その結果、「ごちそうさまでした」というようになりました。レストランでは給仕してくれた人に「丁寧に用意してくれてありがとう」、支払では「シェフに大変おいしかったと伝えてください」というようになり、妻にも「毎日おいしい食事をありがとう」と言えるようになりました。これは教えられたからやっているのではありません。日本の文化だから「ごちそうさま」というのではありません。「社会的動物」だと本当に気づいたことだから言えます。医師は「患者さんにうそをついてはならない」と思っています。だから、食事についても嘘偽り強制なしに「いただきます」「ごちそうさまでした」と感謝の言葉を口に出せます。
というわけで私は年老いてくるにつれて文化に強制されるのではなく、自分の考えていることを口に出すという自然な行為として「ごちそうさま」を言えるようになりました。
若い人々に「礼儀だから」「文化だから」と言っても理解されないです。経験豊かな人が普段からそのようにしていて、若者がいろいろな体験をした後で「ああ、そういえばうちの爺さんが食事をいただけることに感謝していたな、こういう意味だったのか」と気づくチャンスを提供するくらいでよいと思っています。
若者は年を経て体験から学んでいくでしょう。私がそうであったように。このように思うと心が安らぎます。
いつも面白いお話をありがとうございます。