無の存在

先日、電車の中吊り広告で面白い言葉を見た。

「不連続の連続」である。

この言葉を見て標記の言葉を瞬間的に思い出した。

さて、ケメルマンの向こうを張ってこれらの言葉で遊んでみよう。

 

「不連続の連続」ってことは、その現象だけを外から見たら、

おそらくただの「不連続」で構わないと感じる。

ここに「連続性」という概念を取り込める論理構造が面白そうだ。

「連続」という言葉が意味するときに、

必ず何かの「要素」が意図されているはずである。

何らかの構成要素が規則的に並ぶことによってしか連続性は担保されないだろう。

もちろん、「不連続」の概念にも構成要素は意識されなければならない。

その要素の並びが不連続なのだから。

さて、ここで並びについて、

当然ながら、空間的な並びと同時に時間を跨いだ並びもあるだろうが、

ここではとりあえずこの違いを意識しないでおこう。

 

まず考えられるのは、次元の異なる構造の存在だろう。

不連続性をいうのだから、ある要素同士の並びには規則性は見いだせないはずだ。

ここで、おそらくこの不連続な状態を一度閉じて、

不連続であるというひとつの構造を意識する。

そして、その、構造内部の不連続性を有するものが複数集まったときに連続性をもつということがいえる。

ただ、整理すべき問題はいくつかある。

ひとつは、不連続だとして閉じた構造同士の並びに規則性が見える場合であり、

もうひとつは、不連続として閉じた構造同士を並べてもやはり不連続だった場合だ。

 

後者の場合は、やはり無理に要素として閉じさせた構造が集まっても不連続な訳で、

とすれば、あえて要素として閉じさせなくても結局はすべて不連続だったとしかならない。

ここで、いったん要素の集合として構造に区切った際には何らかの条件が要求されるはずである。

たとえば時代背景、江戸時代でくくり、明治でくくって大正でくくったけど、

その間にもなにも連続性が見られないという感じだろうか。

対して前者の場合には、構造が閉じた時点で新たな構造の要素となり、

それらが集合したときに何らかの関係性を紡ぎだすという形として理解できる。

これは、一見して混沌としていた世界を、あるまとめ方をしたときにのみ

何らかの意味が見いだせるということになろう。

普通は、要素同士を集合し構造として閉じるためには、

その要素通しの間に何らかの意味付けが必要であるはずだ。

そうでなければ構造として閉じられない。

これが普通の人の思考だろうと思う。

しかし、まったく意味を持っていないように感じられる要素を、

意味不明の状態で構造としてまとめた結果として、

そこに規則が見いだされ隠れた連続性が復活するということは、

もしそういった事象が自然界にもあるとして、

新しい方法論の模索にきっかけを与えないのだろうか?