本質
「本質」を考えたいと常に思っている。「分子・遺伝子嫌い」と言われている考え方にしても、必ずしも「分子・遺伝子」が嫌いというのではなく、分子・遺伝子という方法論のみから生命を語ることに違和感があるだけである。説明するのが難しいのだが、今まで見つけられていなかった分子・遺伝子を新たに発見するだけで、その分子・遺伝子は知らなかったけれど、「そんなのがあってもいいよな」「そりゃそんなものもあるだろうな」と想像の枠を超えないなら、何も興奮しないし、重要だとも思えない。だから、「新規の遺伝子を発見した」と興奮されれば興奮されるほど、聞いているこちら側としてはただただ白けるだけで終わる。しかし、その分子・遺伝子が発見された結果として、それまで想像すらできなかったようなあたらしい概念が生まれたのであれば、それは素晴らしい発見であると考える。だから、単に「分子・遺伝子」の問題ではないのである。
誤解を恐れずに言えば、私はパラダイムシフトを起こしたいと思っている。何も、「体制転換」を望んでいるわけではないのだが、今までわかっている概念の範疇で想像できるような発見に魅力を感じない以上は、どうしてもこのような表現にならざるを得ない。たとえ未知の分子が発見されても、既知の筋書きの範疇の範囲にあるかぎり驚きはない。
ただ、既知の事実の総合が現在の知見なので、その知見の範囲では想像すらできない新たな分子が発見されることで、新しい概念の創造が起こることは当然であるため、新規の遺伝子や分子の発見すべてに意味がないとは決して思わない。結局は、あらたな概念の創出に貢献するか否かが価値判断のすべてであって、新しい遺伝子や分子の発見が重要なのではないと考える。
なぜこう考えるのかについてはこの欄で何度も書いているが、その筋書きこそが生き物の意味であり、その筋書きにこそ淘汰圧がかかると考えているからである。細胞周期を止めることが分化に必要だとすれば、そこに働く分子の如何に関わらず、細胞周期を止めるか否かだけが本質として注視されるべきだと思っている。進化の過程で遺伝子が変異を受けたとして、その変異が受け入れられるかどうかは、現在の「筋書き」を全うできるか否かだけが基準となるはずである。その際に働く分子はその文脈を否定しない限りは特に何だって構わないし、分子や遺伝子には生き物の本質は存在しないと考えているのである。