「素過程」とは
過去に「素過程」について議論した(1 ・2)。その際に「素過程」をどう考えるのかについて中途半端に終わったように感じるので、ここで少し蒸し返してみたい。
進化と発生を考える上で普遍性と多様性は避けて通れない概念である。では、普遍性と多様性はア・プリオリに成立しうる概念なのかといえば、当然ながら、両者は互いに依存して存在する。私たち発生学者は時間を伴った変化を考えるので、どうしても運動の話になるが、運動の結果として生じる形態にも普遍と多様が見出される。互いにまったく異なるように見えるところは多様として問題はないだろうが、その中にほんの少しだけ互いに似ているところがある。これが普遍である。これまでは互いに異なると思っていた事象であっても、見方を変えたら互いに似ているところが見えてくる場合は「普遍性の発見」として構わないだろう。
話は変わる。「意味」についていろんなところで書いている。詳細については、このコラムの至る所を探索してくださるか、「かたち論」や「ことば論」あるいは「形についての小論」をお読みいただきたいのだが、ざっくりと書けば、意味とは独立して規定されるものではなく、周囲との関係性によって必然的に決まるとしている。だから、普遍という概念も多様の中にあってこそ意味を持ちうる。すべてが同じだった場合には多様という概念は生じ得ないし、同時に普遍という概念も成立し得ない。
ある視点で特定の時間軸や特定の構造を切り取ったときにそこに共通性が見出せたら、それが一つの普遍的単位となって「素過程」となりうる。もちろんこの「共通性」とは、多様性の中にあって初めて見えてくる「共通性」である。
私たちが提出しているモデルから、これまでは一つの運動とみなされてきた組織の動きをふたつの素過程に分けて考えられると主張している。この視点から見れば、脊索動物のなかで説明が難しかった動きが説明できるようになってきたと考えている。キモは、素過程をどのように見出したかという点である。
で、「素過程」の議論であるが、ある種のカセットだと考えていいと思っている。例えば脊椎動物の初期発生において、複数の素過程は咽頭肺の形成までに済ませておけば構わないと考える。その意味では、複数の素過程が独立して起こっていても同時に起こっていても構わないし、多少の時間的なオーバーラップがあっても構わない。これらの時間的な違いによって全体像がまったく異なるように見えるかもしれないが、素過程に分解してみれば実は極めて似通っているのだろうと考えている。カセットの組み合わせで形は作られるのだが、結果としてある時期までにそのカセットが機能していれば構わないだけの話で、それほどまでの厳密さはない。ここに関わる考え方の根本は発生拘束だろう。「発生拘束」とは「淘汰圧」に他ならないのである。