初期発生における素過程とは
発生過程を素過程に分けて考えることの可能性を以前書いた
(https://hashimochi.com/archives/6414)。
その話も研究者仲間としておおむね共感を得ている。
ただ、そこで必ず出てくる話がある。
それは、「素過程ってものを具体的にどう決めるのか?」である。
「どこからどこまでがひとつの素過程と認識するのか?」である。
たしかに、原口が閉じるまでっていうと何となくひとつの過程とできそうである。
しかし、原口がおおむね閉じた状態からいつまでも完全には閉じない種類もいる。
その場合に「原口が閉じる」というのをどう考えるのか?
実際には原口が閉じるなんてのはまだいい。
種によってある程度揺らぎはあるものの一定の規則は当てはめられるからだ。
しかし例えば軸を形成するなんてのは過程と決めるにははなはだ危なっかしい。
頭部の形成なんてものも、そもそも頭部の定義自体が危うい。
明確にここからここまでって決めることがなかなか困難である。
しかし、卵に軸性が存在するものと、
受精後の初期発生過程で軸性を獲得するものを比較する場合には、
「軸」という漠然としたものを議論に上げざるを得ない。
具体的に素過程を考えているとこのような問題に頻繁にぶつかる。
というより、明確にこれと決まる過程はそうそうない。
要は、素過程とは概念的なものであり、
あるいは認識の枠組みのような漠然としたものと捉えるべきなのかもしれない。
こう考えると哲学の問題にぶつかる。
近代哲学では「概念の分析」がひとつの主題となっているはずである。
物事はア・プリオリに存在するものではない。
だから、意味とは関係性によって成立するのは事実であろう。
しかし、この「意味」というのもある程度明確に規定されるものと
概念的な規定しかできないものとがあろう。
この「概念」の意味付けについてどう捉えるのか?
これが素過程の議論に立ちはだかっているような気がしている。
ただ、概念というものをもう少し真剣に掘り下げた時に
何か見えるような気もしているところは
現時点では楽観してもいいように思う。
甘いかな?