発生拘束

ゲノムの変化がすべてであるというのは一義的には正しい。

しかし、ゲノムの変化は間違いなく発生現象の拘束を受けている。

たとえば「このかたちを経なければならない」という拘束がある場合に、

そのかたちを経る限りにおいていかなる変異も許容されるが、

そのかたちを経なければまったく変異を受け入れられないというものだ。

そのかたちとはたとえば脊椎動物の咽頭胚のようなものだろう。

変異が中立かつ自由に入り、それが単に自然淘汰だけによって選択されるのであれば、

咽頭胚の時期のかたちがもっと多様になっても構わないと感じるのだが、

卵形成まではかなり多様に変化しているにも関わらず、

その変化を原腸形成過程によって収斂し咽頭胚へともってくる原動力を

ゲノムに押し込めるよりは個体発生過程にになわせる方が個人的には納得しやすい。

 

別に頭部をいつ作ったって構わないし、

神経がいつできたって理屈の上だけで考えれば構わないだろうに、

咽頭胚の時期にすべてをそろえなければならないという個体発生過程における拘束が

脊椎動物が生じた時にでき上がってしまったということだと感じる。

もちろん、ゲノムの関係性に拘束がかかって身動きとれないとも考えられるが、

何でもゲノムに落とし込む思考は直感的に受け入れられない。

 

さて、現在わたしは脊椎動物の原腸形成過程の共通性について見ている。

そこである仮説(というほど大変なものではないのだが)を立ててみた。

要するに、脊椎動物の原腸形成過程はあるかたちを作ることが目的にあり、

そのかたちを完成させるような原則(拘束)の範囲で変異してきたということだ。

だから、たとえば栄養分を卵にもたせようとする場合も、

その栄養分の大きさによって取りうる運動の様式が異なる。

魚や両生類は栄養分を胚体で包み込むことに成功しているが、

それはあくまでも栄養分の大きさがそれを可能にできる範囲に収まっているだけのことだろう。

だから、それ以上に大きな栄養を卵にもたせる必要が生じた場合には、

異なる運動様式を必要とするだろう。

同じ盤割をするように見えるサカナと爬虫類が、

相同性を元にそれぞれの組織や細胞群を検討すると、

実はまったく「正反対」の動きをしていることに気付く。

この違いはおそらく両生類やサカナから爬虫類への変換のときに

偶然卵黄が巨大化したことに起因するのではないかと疑っているわけだ。

とても自分の胚体に納めきれない卵黄を抱えた時に、

卵黄を胚体に抱えることを放棄した結果として

サカナとは180°異なる原腸形成様式を取り入れ、

その結果として羊膜類が誕生したのではないかと感じるのだ。

その際に、まったく別の発生過程を創造するのではなく

やはり現存する脊椎動物に還元できる原腸形成機構に落ち着いたことの意味として、

原腸形成過程のある時期に特定の形態を経なければならない拘束が

脊椎動物の誕生から存在していたのではないかということである。

 

まあ、この具体例はともかくとして、

個体発生の様式がゲノムの変化を拘束することは当然のようにあり得る。

この意味においてゲノム万能主義は私にとってどうも馴染めないのだ。

たしかにゲノムにすべてが書かれている。

そしてそのゲノムによって形づくりは起こっている。

それは認める。

しかし、だから「ゲノムさえ見ていれば」という論理展開は、

「すべて生命は分子からできている」「だから分子さえ見ていれば生きものは理解できる」という

分子生物学者の発想と何ら変わらないと感じるのだ。

ゲノムは歴史、あるいは歴史が書かれた書物であって、

それを読み解く時にはその時代背景が重要な意味をもつ。

その時代背景がなければ歴史は変わっていただろう。

脊椎動物が全く別の原腸形成過程を獲得していれば

もっと別の変異を受け入れたであろうことは想像に難くない。

個体発生から進化を見る試みとは歴史における時代背景の意味を検証する試みに近いのかもしれない。