なぜ(私が)英語の論文を読めるのか? その2

これは何も英語に限ったことではない。日本語の文章を読んでいても、流れとか筋書きとかを頭で理解しながら読み進めている。だから、その流れに合わない内容の文章が出てきたら、その意味を取ることができなくなる。流れを理解して読み進めるということは、次にくる文章を大まかに予測しながら読むことにもなる。だから、予測の範疇にない言葉が突然現れたら、意味を取ることができなくなる。その文章を単体で考えたら意味が取れるとしても、その文脈に置かれる意味が理解できないこととなる。いまは「文章」単体の話をしているが、これが文脈であったり筋書きであったりしても同じことで、それの最たるものがミステリ小説だろうと思う。その瞬間まで間違った理解を読者にさせておき、ある瞬間に、全体をまったく異なる絵に変換する。優れたミステリ小説だと、その変換がたった一つの文章でなされる。

話を戻そう。前後の文脈やどの段落によって作られる「かたち」の中で意味が成立している。だから、文章の集合体の中で一つ一つの文章に意味が与えられる。私たちは文章を読むときに、一つ一つの文章の意味を真剣に理解しながら読み進めることはほとんどないだろう。侃という字は読めるだろうか?私は無理である。でも、侃侃諤諤とあれば「かんかんがくがく」と読める。「吽」はいかがだろうか。「阿吽の呼吸」とあれば「あうん」と読める。もっと簡単な漢字でも同じことで、その文字を単体で見たら、「あれ、これなんって読むんやったっけ?」になることがあるし、ひどい場合には「こんな漢字を見たことないわ」だったりする。

(つづきます)