喧々諤々

この言葉を聞いたことがある方もいらっしゃるでしょうね。

「けんけんがくがく」と読みます(読ませますかな?)。

前総務部長も、お越しになった時にこの言葉を頻繁に使っていました。

 

なにが言いたいのか、分かる方には分かるでしょう。

こういう日本語は存在しないのです。

でも、この言葉を口にする人が少なからずいるのはなぜでしょうか。

それは、「大勢の人がやかましく騒ぎたてるさま」を意味する喧々囂々と

「正しいと思うことを堂々と主張するさま」を意味する侃々諤々から生じた間違いからでしょう。

前出の部長も、侃々諤々の意味で「議論をしっかりしよう」という文脈で使っていました。

 

なぜ、このようなことを書いたかと言えば、

先日の文部科学省の言葉に関する調査結果を新聞で見たからです。

「なよなよする」とか「失笑する」とか、

本来の意味とは異なる誤用が多いという結果になったあれです。

 

たぶん、本来の日本語の意味がどんどん変わっていくことは良くないのでしょう。

でも、言葉ってそもそもそのようなものであるというのも事実で、

特に日本語はその構造に起因するのか変化し易いように思います。

だから、定期的に誤用を指摘してゆり戻す動きは必要だろうと思う。

しかし、誤用の方が多数になった時にも揺り戻しが必要かといえば

これはちょっと考え込んでしまう。

単なる言い回しの間違いならばどちらでも良いような気はする。

パッと思いつくのは「的を得る」でしょうか。

これも「的を射る(うまく要点をつかむ)」と「当を得る(道理にかなっている)」の混血ですが、

なんとなくいいたいことは分かるからです。

その意味では標題の「喧々諤々」だって、特に目くじらをたてることはないかもしれません。

 

でも、その意味が変化している場合には、

意味が定着するまでの期間(そこそこ長いよね、きっと?)は

たぶん日本語として混乱を招くような気がします。

この過程って、進化の「前適応」にも似た状況ではないかと楽しくもあります。

 

いつもいうことですが、意味はア・プリオリには成立し得ません。

単語なら、その文章や文脈によってのみ規定されます。

ただ、文章や文脈を構成しているのは種々の単語であるのも事実なので、

それらの単語の意味は、ある範囲において日本語の中で共通理解されなければならないわけです。

要するに、その文章や文脈を構成する複数の単語との関係性は、

日本語という言語の成り立ちの過程である程度は規定されており、

その関係性を満たす以外の変化が導入された場合に、

関係性そのものが成立できず、その単語が意味を持てなくなるということでしょう。

 

今回の例でいえば「失笑する」なんてのはちょっと危ないかもしれません。

失笑とは「思わず笑い出してしまうこと。おかしさのあまり噴き出すこと。」の意味ですが、

一般には「呆れる」くらいの意味、あるいは「苦笑」に近いような感覚で用いられるようです。

後者の意味にはちょっと相手を馬鹿にする感じがこもっているので、

前者の意味として口から発した時に、聞き手が後者の意味だと思えば、

下手をすれば感情的なすれ違いを生じる危険もあるでしょう。

これは、以前に「お疲れさま・ご苦労さま」に関しても同様のことを書きました。

 

「正しい」という言葉をどう用いたらいいのか?

古来の日本語の意味においての正否なのか、

どの程度まで時代をさかのぼって考えたらいいのか?

今の時代で「誤用」が多数を占めれば、それは誤用ではなくなるとするのか?

それともやはりそれは学問的に間違っているとするのか?

おそらくは決めようもないでしょうが、

どう考えたらいいのかを考えると(←ややこしい?)面白いかもしれません。

この場合の内部淘汰とは、文章として意味を持たせうるかどうかであり、

外部淘汰とはその意味が一般に通じるかどうかなのだろうと思います。