行き詰まり

以前に、習熟の度合いによって価値観や立ち居振る舞いが変わると書いた

https://hashimochi.com/archives/4627

似たようなことは形を変えて何度か経験している。

同じところを堂々巡りすることも珍しくない

https://hashimochi.com/archives/2442

 

話しは少し変わるが、

たとえばある前提をおいて各論を話すと何も問題なく論は進むのだが、

別の議論との整合性がつかなくなったり、

違う前提をおくことで、あるいはさらに一般論へと展開することで、

さっきまでの議論は破綻したりすることがある。

 

卑近な例で恐縮だが、いつも書いている視覚と聴覚(形と働き)についてでも、

養老孟司の言うように、

視覚情報には時間は必要なく聴覚情報には時間が必要であるとすれば、

その時点では何となく納得してしまう。

しかし、突き進んで考えると情報そのものの解釈には時間が必要であることに突き当たる。

だから、たとえばかたちの話でこの辺りに触れているときに、

当初は何も疑問なく自信たっぷりに話せていたのだが、

ある瞬間から、そのずっとあとに話していることとの整合性がないことに気付く。

そう気付くと、次回からは「視覚と聴覚」の話すらまともに話せなくなる。

しかし、この辺りはそこまで正確さを要求するものではないのだから、

さらっと流せば良いと頭では分かるのだが、心がそれに抵抗を見せる。

昨日書いた、「教員が講義の最中にいきなり悩み出す」みたいなことは、

なんとなくこんなことなのかなって思う。

 

さて、卑近な例から大きく飛翔する。

ソシュールは一般言語学講義を三回行なったのちに沈黙してしまった。

ハイデガーも、存在について考察するうちに沈黙した。

かたち論も(本当に卑近で申し訳ない)、漠と考えている時にはすんなり入るのだが、

詳細を詰めていくと難しくなる。

というか、一定条件下で各論には理屈は立てられる。

しかし、それが別の各論と相互に矛盾するのだ。

それはひとえに、それぞれに与えた条件のせいだろう。

ではどうするのか?それが分かれば苦労はしない。

昔から哲学者は悩んでいる。

哲学者は、言い始めは良いのだが議論が進むと途端に沈黙し悩み始める。

だから、私ごときが悩んだところで当然すぎて面白くもない。

 

こう考えていくと、相対論も初めに「特殊」がで、

次に「一般」がでたのはものの道理というものかもしれない。

「一般」にまで展開したアインシュタインはやはり天才なのだろう??