古い?
よく議論の最中に「欧米では」とか「だから日本は」
みたいな話をする人も多いと感じる。
この議論の前提条件として、
欧米の方が日本より進んでいる、
欧米の価値観がすべからく正しい
というのがあるのは間違いない。
ひとつの例として欧米の話を持ち出す事も論理的にはあり得るが、
この手の議論をする人の方向性としては
間違いなく「欧米では」という例示を
「だから日本は間違って(遅れて)いる」となる場合が多い。
このような議論が馬鹿げている事は明確である。
さて、似たような話として「その考え方は古いよ」と言う人がいる。
これは本当に良く耳にする言葉だろうと思う。
この議論も上と同様に考える事はあるレベルでは可能であろう。
すなわち、「欧米の方が進んでいる」
「比較して日本の方が遅れている」という議論の流れだろう。
ただ、それとは違い(本質的には同じだと私は思うのだが)
本当にある考え方を最新であるとか古いとか判断される事がある。
これをどう思うのかなのだが、
私は、この「古い・新しい」という考え方には
技術の問題を除いては賛同しかねる。
純粋に何かを行なう方法論としての技術に関しては
新しい技術が古い技術を凌駕していてもおかしくない。
しかし、思想や考え方に関しては古いも新しいもない。
己の中での、あるいは世間の流行というのはあろうが、
それがすなわち古い・新しいの議論になる事はない。
というのは、これが絶対に正しいとする最先端の考え方が
その数年後には間違いだと分かり
結局は10年前の方法論に戻る例など掃いて捨てるくらいにあるからだ。
この例は正確ではないかもしれないが、
原発は、始まりの頃は夢の技術だが、
様々な懸念が噴出した頃には原発からの撤退が欧米諸国で始まり、
その中でもまだ原発を進めている日本が「遅れている」と国内から非難された。
しかし、昨今では地球温暖化やらエコやらの議論の中で
原発に再び光が当たっている。
もちろんこれで終わりではあるまい。
現時点で「正しい」とされる結論に至る過程ですら
その時々に応じて「正しい」事が180度変わっている事実、
現在の「正しい」事も10年後には間違っている事になるかもしれないわけで、
こういう事を知るにつけ、
決して議論の中では「古い」という言葉を使わないでいようと
自戒の意味も含めて真面目に考えるのである。
この手の議論は今までも何度か書いていると思うので
まったく同じ例を挙げてしまうかもしれないが、
いくつもある自分自身の経験からひとつだけ書いておこう。
子供の頃、昆虫などの擬態をみて「すごいなあ」と思った。
「きれいだなあ」とも思った事もある。
時が経ち、ちょっとマセた友人から
「昆虫も他の生きものも人間と同じように色やかたちを感じてはいない、
だから、人間の目で見て似ていると思うのも間違いだ」と言われた。
私は「なるほど」と感心したのだが、
ではなぜ、人が見てこれほど似ている者が進化の過程で作り上げられたのかは
まったく説明がつかないままでいた。
その後、「昆虫にどう見えようが、我々の目で見てこれだけ似ているのだから、
擬態である事は間違いない」と現在に至るまで思っている。
例の内容には議論が必要な部分もあるが、
今の議論はこの例文の科学的正確さではないのでご容赦頂きたい。
私が言いたい事は、一番初めの無垢なころの考え方と
様々な経験をし、勉強もして来た現在の考え方が
見かけ上はまったく変わらないと言う事である。
だから、もしマセた友人の意見に洗脳された頃の私が
現在の私の言い分を聞いたらおそらく「古い」とバカにしていただろう。
いや、これが本当に怖い。
だから、他人の意見を頭ごなしに否定する気にはまったくなれない。
「お前は間違えている!」なんて絶対に言えない。
ではどうするのか?
真理を探究する為に心の眼で見、
般若の智慧を得る努力をするために精進を続ける事しかない。
その時点では自分に相容れない意見に対しても耳を傾ける努力をし、
自分の考え方も相手に理解してもらう努力をし続ける事が、
あるいは「識の智慧」を「般若の智慧」へと変えて行く努力をする事こそ
その瞬間にできる最善の事なのだろうと思う。
蛇足だが、我々凡人の智慧を「愚痴」というそうだ。
愚かな上に、やまいだれのついた智慧である。
愚痴を言うのもやめた方が良さそうですね。