号泣
この件に関しては何度か書いた(例えば1,2)が、気になるのでもう一度書く。女子ゴルフの山下選手が全英女子ゴルフの優勝会見に臨んだことがニュース報道で流されていたのだが、全国ネットのテレビ局で「号泣会見」と表現されていた。号泣の「号」は「大きな声を出す」という意味だから、「泣き叫ぶ」状況でなければこの言葉は使えないはずだ。しかし、大粒の涙を流してはいたものの山下選手は決して「号泣」はしていなかった。ふとネットを見ると「卓球 張本美和が疑問と怒りで大号泣」ともあった。スポーツ新聞のネット記事だ。号泣は泣き叫ぶことなので、大号泣ともなれば質疑応答などできない状況であろうが、記事を読む限り、悔し涙を流しながら記者会見に答えていただけに感じられる。この「号泣」という言葉はこの10年くらいだろうか、ネットニュースでよく使われてきたように思う。涙が流れた、あるいは目が潤んだ状態であっても「号泣」と表現される。言葉の意味は文脈で決まる。したがってこの文脈で使われ続けたら、ただ涙を流すことを「号泣」と呼ばれる日が来るのかもしれない(いや、既にきているのかもしれない)。「失笑」もそうだし、私のように古い人間には苦笑するしかないような言葉の使われ方がたくさんなされている。言葉の意味は移ろいゆくものだから「言葉の乱れ」などと大冗談に振りかぶってものを言うつもりはない。ただ、あまりに急速なのでちょっとついていけない自分がいる。冒頭に「気になるので」と書いた。なぜ気になるのか?全国ネットのキー局や新聞がこのような表現を平気で使うようになってきていること、もっとも言葉に注意を払うべき人々の感覚が変わってきていることが「気になる」のである。