勉強するには4

長くなったが、ここからが言いたいこと。もう何度も書いているのだが、「だから、勉強するには複数の教科書・参考書を読む方がいい」である。ここでいう「教科書・参考書」とは中学高校の話ではなく、大学での勉強を想定している。とは言っても、原則的にはまったく変わるものではない。なぜ大学なのかといえば、大学には「文科省検定済みの教科書」なるものは存在しない。何かを勉強するときも、さまざまな著者がさまざまな方向から記した本が存在するに過ぎない。その時に、同じ著者の本を繰り返し読むよりも、違う著者の本を何冊も読み飛ばす方が勉強の効率がいいということを言いたいのだ。同じ教科書・参考書を繰り返し読んでも暗記はできるだろうが理解は深まらないと思っている。同じ内容でも著者が異なればまったく異なる絵にみえる。突き詰めてみれば内容(事実)は同じなのだが、そこに描かれている景色がまったく違って見える。違った景色で同じ内容を表しているわけで、違う言い方をすれば一つの単語や文章の説明をまったく違う文章や文脈で行なっているということになるので、その単語や文章の意味が複数の方向から規定される。これはとりもなおさず、その単語や文章の本質を理解することに他ならない。一つの文章や文脈であれば、いくつかの意味として受け取れる可能性がある。ある文章でその単語は、なんとなく1か2か3の意味っぽいなあと感じる。異なる文章でその単語は2か3か4っぽい意味だろうなと想像する。また別の文章でその単語は1か2か4っぽい。となると、なんとなくその単語は2に近い意味なんだろうなと限定できる。「限定」とまではいかなくても、すくなくとも1・3・4とは違うなということはわかる。参照できる文章や文脈が増えるほど、その単語や文章の意味(の本質)は明確になる。一つの文章しか読んでいなければ、たとえそれを完璧に暗記していても、(本当は2なのに)1の意味だと誤解して覚えることになりかねない。もう一つは、その単語がいろんな状況下でどのように使われているのかを知らなければ、自分自身がその単語を使えない。

私は、commonとordinaryの違いが今ひとつ理解しきれていない。もちろん、じっくり考えたらその違いは理屈ではわかるのだが、common peopleとordinary peopleを咄嗟には使い分けられない。これは単純に、これらの言葉が使われる状況を体験していないからだろう。こういう状況でこういうことを言いたい時にはこちらの単語が使われるというのを文脈で経験すればこれらの言葉を使うことはできると思う。日本語では「おざなり」と「なおざり」も使えない。この言葉がどう言った状況で使われているのか、どのような文脈で使われるのかを日常的に体験していないからだ。以前書いた乃至も同じだ。だからこそ、独立して意味を理解しようとする作業はほぼ無意味なのだ。単語カードで意味を覚えようとするほど非効率的なものはない。

それが言われた状況(文脈)なしに「綺麗に作られてるわ」って言葉の意味はとれない。「美しい」ともとれるが、「正確な」ともとることができる。「丁寧」って可能性もある。「綺麗」という言葉は「清潔な」という意味も持っている。日本語の「綺麗」の核となる意味合いが存在し、その範囲内において自由に「意味」は変わる。どんな言葉にも核となる意味があり、その範囲内で意味合いを変化できるのだが、その範囲が言語によって異なるわけだ。だから日本語の「綺麗」という単語を訳す場合も、文脈によって英語を選択しなければならない。

ってことで、時間は有り余るくらいにあるので、のんびりと「最新」のPC事情でも勉強してみようかな。

(とりあえず今回は終わります。続きはまたどこかで)