乃至(ないし)
本当に恥ずかしいことなのですが、大学院で先輩から「10ないし20」と言われた時にその意味が取れませんでした。「10または20」という意味くらいに考えていたのです。
その理由がただひとつで、乃至と言う言葉にはおそらく大学を卒業するまで出会ったことがなかったからです。もちろん言葉自体は知っていましたし、テレビなどで使われるのを何度も聞いていたと思います。でも、あらゆる文脈の中でその言葉を聞かなければ意味というのは正確に取れません。また、その言葉を使うことによって、その使い方が正しいかどうかを知る訳です。学校の勉強でその言葉を使えるようになる訳ではないし、その言葉の本当の意味を知る訳ではありません。もっと言えば、最近の若い子はおいしい食べ物を「ヤバい」と表現しますよね。それも、その言葉を使う若い人たちの文脈をしり、それの言葉が表現する状況を知って、なおかつその言葉を自分が判断した意味で用いて意味が通じたときに初めてその意味が自分の中で確立するわけです。
敬語ですが、学校で「尊敬語・謙譲語・丁寧語」などをいくら覚えたって使えるはずがありません。その言葉を実地に使う環境にいない限りその言葉の意味を知ることはあり得ないと思います。我々の研究室に回ってくる薬品会社の若い子は本当にきっちりと言葉を使えます。それは、使わなければならない環境におかれているからです。社会でも目上の方に敬語を使うことがなくなった。だから使えなくなった。それだけのことだろうと思います。ここに学校教育を持ち出すのは意味が無く、家庭や社会の問題だろうと思うのです。体育会系とは一般に悪い意味で用いられる言葉のようですが、無理強いや暴力的なのはいいことは無いかもしれませんが(私はある程度の体罰は容認派なので、これはあくまでも一般論です)、年上の人を敬う気持ちを率先して取り組んでいるという意味での体育会系は日本のいい伝統文化だとさえ思います。ただしこれは非常に微妙な問題を含んでいるので、こんな簡単な文章で論じていい問題ではないとは思いますが・・・。
「敬語」というと「相手との距離感を調節してくれる便利なもの」というイメージがあります。たとえば立場も年齢も上の遠い存在の人に対しては、尊敬語や謙譲語を使うことで、「経験豊かなあなたからご指導を賜りたい」、「未熟者なので失礼があってもお許し願いたい」などというメッセージを送りながらその人と人間関係を結ぶことができますし、また同じような立場でも初対面で相手のバックグラウンドがわからない時、あるいは相手と一定の距離を保ちたい時などは、丁寧語を使うことでこちらから距離感を作り出すことができるような気がします。
私の敬語はかなり怪しいので偉そうなことは言えませんが、人間関係を円滑にするために日本人が長い時間をかけて培ってきた言葉の知恵があまり活用されなくなってきているというのはちょっともったいない気がします。
ps1. 最近その語源を知って驚いた日本語。
・「あこぎな商売」の「あこぎ」は三重県の「阿漕ヶ浦」という地名から。
・「育む(はぐくむ)」は親鳥がその羽で雛を覆い包む「羽包(くく)む」から。
ps2. 『生ける屍の死』と『ロンド』、入手しました!『ロンド』はすごいボリュームですね。しかも作者は木版画家!読むのが遅いのでかなり時間がかかりそうですが、どちらもとってもおもしろそう!!終わったら『奇遇』にも挑戦したいと思っています。
奇偶はミステリに分類されていますが、これをミステリと扱うのが正しいのかどうなのか・・・?なんにしても、読んだら知恵熱が出るかもしれませんのでお気を付けて
ミステリーとは全然関係ないのですが、先日本川達雄さんの『おまけの人生』(阪急コミュニケーションズ、2005年)の中の「道元の時間ー生物学の視点で読む『正法眼蔵』」を読んでいて、以前橋本さんがコラムに書かれていた「階層に時間の概念を組み入れた「新しい」枠組み」というのを思い浮かべてしまいました。
本川さんによると、「キリスト教や古典物理学では時間と空間とを分けて考えるところがある。また西洋では時間は神様のものでありわれわれ人間が考えてもはじまらないということで深い考察の対象になってこなかった。そのため西洋の哲学にはまともな時間論がないらしい…。」とのことで、われわれ(東洋人)にとっては当たり前と思える時空一体という考え方も、西洋の学問体系においては「新しい」考え方なのかなと思ってしまいました。
また「薪が灰になる」現象を例に挙げて、「均質で絶対的な古典物理学の時間では薪はだんだんと変化して灰になっていくが、多様で重層的な道元の時間においては薪から灰へはポンと移る。しかしその間に決して隙間があるわけではない。」と書かれていて、「下位の要素が閉じて上位の要素になる不連続的な変化」をイメージしてしまいました。
ただ本川さんは「時間」そのものを扱っているので、橋本さんが扱おうとされている「時間軸」というものとは全く次元の違う話なのかもしれませんが…