表現の自由
衆議院の補選での「選挙妨害」が議論になっている。妨害したとされる党の党首は「表現の自由」であり「合法」だと主張していようだ。この件に関しては詳細を承知していないのでこれ以上の議論はできないので一般論として思うところを書いてみる。
まず「表現の自由」であるのだが、これは自分の自由のために他人の自由を侵害してはならないのは間違いない。だから、立候補者の意見を聞くのは有権者の権利であり、それを邪魔することは個人の権利の枠を超えている。これは、この場合に限らず、「表現の自由」を主張する多くの人の本質的な問題ではないかと思う。この辺りは先日も書いた(自由・自由2・自由3)。
もう一つは「合法」の概念だろう。これも、正確には、その時の常識に照らして法律が想定していないような行動は当然のことながら法律では制限できない。これを「合法」とするのには違和感しか覚えない。強いて表現するとすれば「違法とは言えない」あるいは「脱法」であろうか。法律は「最低限の道徳」である。「法律に触れていない」では社会生活には不十分であって、それを超える倫理観・道徳観が求められるのは当然だろう。どうも、「法に触れていない」「自分の自由(権利)だ」と声高に主張する人の多くが胡散臭く見えるのは気のせいだろうか?
ただ、特に政治家には最大限の道徳観が求められると思っている。政治家は、「法に触れていない」と主張指定はならないと考えている。その理由は「政治家が法律を作るから」である。自分たちが自分たちの都合のいいようなユルい法律を作って、「法に触れていない」を主張するのは間違えている。普通の道徳に触れるようなこと(「それはおかしいやろ」と私たち庶民が普通に思うこと)を規制できないような法律を自分たちが作っておいて「合法である」と胸を張って言える人間性を疑う。自分たちこそ、我々庶民よりも一段高い倫理観を持って自分たちを律する法律を作るべきだろうし、もしそれができないのであれば、公務員の給料を人事員が勧告するように、政治家を律する法律は別機関が作るべきだと思う。短絡的にすぎのだろうか??