自由? その2
神様に担保された権利には当然のことながら神様からの制約がかかる。モーセが神様からいただいた「十戒」のような「神様との約束」があってこその「基本的人権」である。だから、そこには宗教に基づく倫理観だったり道徳観が存在する。コインの裏表のような存在であって両者は切って離せるものではない。神様との強い約束があって、それに背かないように生きているからこそ権利が神様から与えられるという思想は確実に存在する。だから法律も神様との約束が根底に存在するはずだ。
このように、本来の基本的人権をいう概念には倫理観がセットになって存在する。「権利」には「義務」が伴うという当たり前の考え方である。対して日本では、基本的人権が存在する理由がない。強いて言えば「憲法に書かれているから」が理由である。日本にも、「お天道様が見ている」から見つからなくても悪いことはしないし、自分が努力して何かを成し遂げても「おかげさま」と考えるような世界に誇れる美徳がある。どこに出しても恥ずかしくないどころか、世界中の人にも共有してもらいたい倫理観であり道徳観である。問題なのは、その「美徳」と「権利」が乖離していることだと思う。倫理観は観念であり、権利は法律であって、両者はまったくの別物だから、基本的人権とは、何の制約もかからないア・プリオリに存在する権利であるというのが我々日本人にとっての認識になる。倫理に背いても「法律に触れていないから問題ない」と平気で考える。どんなことをしても「俺の自由だ」と平気でうそぶく。倫理的に責められる言動であっても「法律に触れていない」という理由で不問になされる。それは日本人の感覚の問題というよりは、法律の立て付けからそうなっているようにしか思えない。
表現が難しいのだが、アメリカで不道徳な行為をすることは、自分たちの存在の唯一の理由である神様に対して叛くことを意味するのに対して、日本での不道徳とは、個人の道徳観(神様との約束ではない)に触れる程度のことであってそれほど重大なことではないと本気で思っている節がある。