日本の科学が衰退する原因は?2/3
この10年ほど、高校の生物教育に関心を持っている。大きな野望があるのではないが、今の高校生物の教科書を見たら「これで生物学が好きになるとは思えない」と感じたから、若い人に「生物の面白さ」を伝えたいと考えて、「どうしたらそれができるのか」について想いを巡らせている。
高校教育の問題だけではない(根っこは同じかもしれないが)。大学院に入ってくる学生の質がものすごく落ちているように感じる。これは学力という意味でもそうなのだが、それ以前に未知のものに挑戦したいという意欲を感じられないのだ。20年くらい前はもう少しマシだった。研究=未知なるものに対して貪欲に議論したしたくさん実験もした。それが今では週休二日は当たり前で日々の生活も9時ー17時が基本である。こう書くとハラスメントとか労働基準法に違反するとかいう話になるし、それが怖いから強いて何かをさせることはもうない。でも、研究者になるために必要な実績や業績を積み上げるためには研究内容に応じて最低限の研究時間は必要なのだ。カエルの卵を授精すると卵割が始まる。胞胚になり原腸胚になり神経胚になり咽頭胚になる。この形の変化を探究するには発生過程の観察が必要になる。三日間の連続した観察が必要なら、週休二日だと週に一回の実験しかできない。夜間の観察が必要な場合授精の時間を工夫して昼間に観察することもできるだろうが、12時間間隔での観察は絶対に無理である。
まあ、こういう愚痴を書いていても詮なきことゆえこれ以上は書かないが、具体的な問題というよりも、未知の問いに立ち向かう好奇心が感じられないのである。そして、これはその個人の問題というよりも中学高校あたりの生物(理科)教育に問題があるのではないかと感じるのである。まず、その現象を面白いと感じていない(感じているのかもしれないが、議論の中でその好奇心が垣間見れないし、そもそも議論をしにくることすらほとんどない)。次の実験の議論をしていたとき、橋本は自分の考えを話す。どういう論理でそう感じたのかについてしっかりと理論立てて話す。しかし学生はそれをただ聞くだけで自分の意見などまったく言わない。これまでの実験で分かったことの分析も、ただ橋本の言うことを聞くだけで終わる。そして、次の実験についても「どう思うのか」「何がしたいのか」「どうすべきなのか」についての意見などひとことも言わない。仕方なく助け舟を出す。「例えばこういうことをやってみたらどうだろう。もし前の実験結果の意味がこうであるなら、こういう実験をすればそうかそうじゃないかはわかるはずだし・・・」と語って様子を見ていると、「わかりました」と去っていく。数日後、「橋本の言うとおりに実験したのに期待する結果が出なかったじゃないか?どうしてくれるんだ」と責め(攻め)られる。こういう学生がとにかく多くなったと感じている。
その原因はいろいろあるのだろうが、その大きなものの一つに「好奇心の欠如」があると思っている。面白ければ知りたいと思う。これが科学の原動力だろう。それがなくてなぜ研究者になろうと思ったのか?先生の言うままの実験をして論文を書いて(ひどい人は先生に論文を書いてもらい)学位をとって卒業して、そこから先どうするの???ってことだ。
理科離れなんて言葉も古いものになった感がある。以前にも書いたが、理科離れとは論理離れだと思っている(理科離れ, 理科離れ, 理)。論理的に考える訓練を積んでいなければ理科なんて面白いはずがない。だから、論理的に考えることを小中学校で学ばせてほしいと思う。論理力の基本は国語力であるから、文章を理解する能力を育ててほしいし、わかりやすい日本語作文ができる能力を育ててほしい。その上での、自然現象(生物学なら生命現象)への興味や好奇心である。謎を見つけ、そこに問いを立てる。次には検証する方法を考え、結果を理解し考察する、こういう一連の動きの方法論は論理力であるが、それを突き動かす力は好奇心だと思っている。小中学生に論理性を育てる機会は橋本にはないのだが(やってみたいとは思っているが、これに関しては本当にその機会を想像できないのだ)、生き物の面白さや不思議さを見出すための力にはなれるような気がしている。そこから問いを探し考えることは一緒にやっていけるのではないかと勝手に思っている。新しい指導要領も共通テストも、ここに書いた橋本の懸念を受けて必然的に現れてきたと感じている。これまでのように「ひたすらに暗記させる」だけではダメで、「考える能力」「議論できる力」「表現力」を育てることが理科教育の目的になってきたのだろうと思う。だから、機会を見つけて、高校生物教育には取り組みたいと思っている。
(続きます)