理科離れ

先日の全国一斉学力調査で

中学生の理科離れが明確になったと報道されていた。

 

さて、理科離れである。

何度も書いているが、私はこれを「理科」から離れている、

あるいは「理科」を苦手とするとは考えていない。

これはむしろ「論理離れ」であると考える方が正しいように思うのだ。

その理由はいろいろとあるのだが、

小中学校の教育で論理を教える教科が理科と算数(数学)しかないというのもある。

数学は明確な論理であることは周知の事実だ。

理科も、物理や化学などは当然のことながら

生物も地学も自然現象からその理屈を考えさせる。

だから矛盾のない論理立てをする必要がある訳で、

これがおそらく低学年のうちに教育されていないのだろうと思う。

 

では、子供のうちにするべき論理教育とは何か?

そんなのは「国語教育」に決まっている。

文章読解能力と作文能力である。

それができずに高度な論理構築ができるはずがないというのが私の考えだ。

特に作文能力、論理的に分かり易い文章を作る技術を体系だって教えるべきだろうが、

それがなされているとは到底思えない。

なぜ「到底思えない」のか?

それは、学校の先生の日本語があまりにひどいからである。

こんな日本語を話しあるいは書く先生が、

正確な表現を教えられるはずがないと思う。

これはいまの先生批判ではない。

この先生方も、私と同様にこの国の国語教育を受けてきたのだ。

要は、この国は日本語作文の技術をまったく教えないままに

何十年も(百年以上か?)をただただ漫然と送ってきたのだろうと思う。

 

毎日(たまにサボるけど)このブログを書いていて感じることは、

正確な日本語って難しいってこと。

私はもう書きなぐって読み返すことはないけど、

でも、思っていることが表現できていない場合は、

いま書いているその一文を何度も書き直す。

「空腹感を感じる」と書いてみて、なんともしっくり来ない気持ちの悪さがどこかにある。

「どこだ?」と考えて「感を感じる」だなと気付く。

そして「空腹感を覚える」と書き直す。

「今感じることは」もなんだか気持ち悪い。

だから「いま感じることは」と直す。

なんか、個人の好みのようなところもあるけど、

基本的には読み易さを考えているつもりだ。

こういう試行錯誤を何度もすることが作文能力の深さにつながると思う。

もちろん私のようにそもそもの才能がないヤツはこの辺りが限界かもしれないが、

でも、書き続けることでとにかくわかり易い文章を書く努力はする。

これだけでおそらく論理構築能力のトレーニングには十分になると思う。

こういうことを置き去りにして小学生に英語教育をするということを

愚かだと感じない教育関係者をよほど愚かだと思う。

私たちの論理力は言語に依存しているのは疑いようもない。

即ち日本語の力こそが論理の力なのだ。

それを小学生に教えてあげることが教育なのではないのか?

昔の人を思い出そうよ。

「読み・書き・そろばん」って言ってたじゃないですか?

そして、その教育を受けてきた日本人だからこそ世界のトップになれたんじゃないですか。

目先の技術の訓練なんかする必要などいっさいないと私は言い切れます。

 

こんなことを言うと「国語の時間を増やす」なんて短絡的な話が出てくるかもしれないが、

そうではなく、日本語を理解する技術と表現する技術を具体的に教えてあげてほしい。

それを怠って育てられた子供たちが不憫で仕方ない。

これって言い過ぎか?