理科離れ

私は「理科離れ」を「論理離れ」だと考えている。

すなわち「考えること」から逃げているということである。

少なくとも小中学校では、理科と算数だけで考えることを学ぶと思う。

算数(数学)はそれ自体が純粋論理体系であり、

理科では、数学の論理を用いて考えることが必須である。

これは化学も同様であり、pHやモル濃度あるいは比熱など

さまざまな「論理的思考」が求められる。

子供はこれから逃げているのだろうと私は思っている。

 

本当は社会科だって研究をすれば論理的でなければならないのだが、

小中学校では、これを論理的思考に結びつけるところまでできない。

だから、何となく覚えるだけの教科になっている。

言語は、それ自体が論理体系なので、

国語科も論理的であるべきなのだが、

国語教育に論理的な思考はあまり求められていないように思う。

だから、あまりにも「理科」にこだわった

「理科離れ対策」をすることは本質を見誤るような気がする。

 

私は、高等学校での講演に呼ばれることがある。

講演にお呼びいただく理由はさまざまであり、

純粋に研究の話を聞きたいというのもあれば、

研究者という人種についての話を求められることもある。

その中で、「理科離れ対策」の一環としてお呼び頂くこともある。

なんとか「理科のおもしろさ」を伝えて欲しいといったご希望である。

私はその時に、おそらく先生方のご希望とは正反対の話をする。

それは「科学哲学」についてである。

私の話をお聞きくださった方はご理解いただけると思うが、

すべての科学は本質でつながっていると私は考え、

その時に重要な考え方として「かたち論」的思考をあげている。

物事を直接的に考えるのではなく

物事同士の関係性を論じる思考方法である

(これを私は「色即是空」と呼んだりもしている)。

 

要するに、理系・文系の間に質的な違いは存在しないということ、

自然を対象として科学するか社会を相手に科学をするかの違いだけであることを

講演するのである。

「理科のおもしろさ」を話すのではなく、論理的思考の楽しさを話す。

「論理離れ」している人に「理科の楽しさ」を話しても

おそらく心から共感はされないだろうと思う。

だから、「論理的に考えること」を話す。

すると必然的に内容は哲学になってしまう。

 

この手の話には、ものすごく共感して頂ける方と

まったくの拒否感を持たれる方の二通りがある。

それは仕方のないことだ。

ただ、おそらく普通の学校教育や日常生活で

私がするような論理の話はまず全く聞く機会はないと思う。

何も難しい言葉を使うことなく、

普通の話をするのだが少しだけ切り口を変えてみることで、

新しい世界観が見いだせる。

そのような内容にしたいといつも苦労している。

 

苦労と言えば、伝えたいことを話す為には

その前提を話さなければならないことで、

そうすると何も進まなくなるのだ。

例えば「意味」という言葉を使おうとすると、

「意味の意味」を議論しなければならない。

それはそれでおもしろいのだが、前に進まない。

だから、不用意に「意味」という言葉を使う。

皆さんはそのまま聞いて下さっているが、

おそらく本当のところは伝わり切れていないだろう。

だって、「文脈」の話をするだけでたっぷり1時間以上は必要だし、

文脈の話をするには意味の話が必要だし存在の議論も避けて通れない。

英英辞典で英単語を引くようなもので、

ある単語を引いたらその説明にわからない言葉があり、

それをまた英英辞典で引いて・・・って感じになるのだ。

だから、結局の話としてどこから話し始めても、

どんな切り口で話を作っても、

すべてを語らない限り内容を共有できないということだ。

ただ、この思考過程が科学には極めて重要なので、

ある種の堂々巡りにも感じられるような、

なかなか前に進まない議論こそが新しい論理を形づくる唯一の方法論なのである。

 

一時「かたちの会」というものをやってみたことがある。

土曜日の午後に有志で集まり、話題提供者を一人決めて皆でワイワイやる集まりだ。

しかし、私の中で行き詰まって3回でやめてしまった。

ソシュールの「講義」みたいなものだ。

でも、意味について、存在について、かたちについて

語り合いたいという願望は依然として強く持っている。

そして、それを文章にまとめたいと思っている。

いつのことになるのか分からないけれど、

いつかはやってみたい。