カンニング学習
作問の話(1・2)にも通じると思っているのですが、定期考査で「カンニングペーパーの持ち込みを許可したらいいのではないか」と考えています。これも、なんでもありというのではなく、A3くらいの紙一枚だけを持ち込み可とするのです。そこには何を書いても構わないけど、何かを貼り付けたりするのではなく、自分で文字を書かなくてはなりません。
物理的に、そこにはすべての内容を書くことはできませんし、仮にすべての内容を書けたとしても、その中から問題を解くのに重要なところを見つけなくてはなりませんから、全体の理解ができていなければ得点には到底つながらないでしょう。試験の範囲の中でどこが重要であるかを判断できなければ教科書の丸写しで終わります。重要な文言がどのような文脈で繋がっているかを見極められなければ、問題を解くための道具にはなりません。
このやり方は実は先生方に努力を要求するものでもあります。教科書を見たら解けるような問題を出していてはダメです。正しい理解をしているかどうかを問える問題が出題されなければ意味をなさないからです。「形成体に発現する遺伝子は?」という問いに対して「コーディンとノギン」と答えさせる問題では意味がありませんから、そこに書かれている本質が理解できているかをみることができる問題を作らなければなりません。英語の能力を問うために、わからない単語はすべて辞書を見ても良いという英語の試験問題と言えば分かりやすいかも知れません。まあ、この意味では「なんでも持ち込み可」としてもいいかもしれませんが、やはり試験範囲の中から重要な箇所を見抜いてプリントに書く作業をすることが勉強になると思うから「カンニングペーパー方式」にする方がいいと感じます。
ということを、以前に高校の先生と話していた時のこと、その先生の息子さんも教員をされているそうで、「息子も同じことを言ってた」と言われました。橋本オリジナルかと思っていたのでびっくりしましたが、まあ普通に考えればこの方法に行きついてもおかしくはないだろうなとも思います。
ここから思考は少し飛びます。カンニングペーパーの作り方は人それぞれだと思います。教科書を最初から最後まで順番にうつす人もいるでしょうし、要点を整理して幾つかの筋書きに落とし込んだものを書く人もいるでしょう。効率的なものができたり、知識量としては十分なのにまったく使えないものができたりもするでしょう。このカンニングペーパーの作り方の中に、その生徒の弱点が現れているのではないかと感じるのです。だから、試験の答案と同時にカンニングペーパーも集めて、それを分析してみたら面白いものが見えてくるように感じます。
生徒さんに試験範囲から作問をしてもらってもいいと思います。これは上に書いたカンニングペーパーとまったく同じ意味です。問題の本質が理解できていないと問題なんか作れっこありませんから、3〜4人の班に分けてその試験範囲の作問をしてもらったら、その分野の理解は進むと考えられます。いかに良いカンニングペーパーを作ることができるのかとまったく同じ次元で、いかに良い問題を作られるのかという技術が本質の理解と直結しているのではないかと思うのです。良問を作ることができた生徒さんは、その範囲の理解は済んでいると考えても構わないでしょう。そしてこの考え方は、先日来書き連ねている「考える会」の根本思想にも直結するのです。
前出の「高校の先生の息子さん」の意見も同じ教員の中ではなかなか認められないと聞きましたが、年寄りの古き悪き固定観念がはびこっているのでしょうか(言い過ぎかな)。まあ、この問題は生徒を選ぶかもしれませんが、やってみる価値はあると思います。
(どこかにつづきます)
その息子の親です。息子は「持ち込み用紙」というネーミング(カンニングペーパーの呼称は現場には不向きですからね)で、その紙を作らせて定期考査を実施する方式を実践しています。「生徒を選ぶ」なんてことはありません。いわゆる「受験勉強」のようなお勉強とはほぼ無縁の現場です。やり方と狙いをどこに据えるか次第だと、息子の実践を聞いていて思います。
ペーパーの作成過程は「未来の自分に教える体験」で、その体験が自分自身の「理解のプロセスへの気づき」を引き出す、と実感しているようすです。「来週試験を受ける自分はそのときに何を教えてもらったら、こういう問題を解けるんだろう」と、考えて作らないと、役に立つペーパーはできません。考査の実施における公平性や不正の防止に配慮しつつ、生徒たちのその過程に丁寧に向き合う息子の姿勢には、親バカで恐縮ですが、頭が下がります。
覚えてないから解けない、いやいや、覚えていても(使えないから)解けない、じゃなくて、「覚えてなくてもこれだけ分かっていれば解ける、を、自分自身に問いつつ、あらかじめ用意する」って、よほど「人間らしい頭の使い方」ですよね。現場でそういうことを実践していこうとする若い力に期待を持っています。
面白いと思うのは、はしもちさんの「生徒を選ぶ」はそれなりに力のある人じゃないとというニュアンスで、求めていることもそれなりの中身のこと、なのでしょうが、逆に息子が周囲から受けるのは「それはそのレベルの対象(受験勉強なんかしない学校の生徒)への授業だからでしょ、普通の学校ではできないよ」という反応だ、ということです。
結局のところ、「できない」のは「先生の側」なのかもしれないですね。
アミノ酸の構造式を覚えていなければならない研究分野もありますし、コドン表を覚えている必要のある研究分野もあります。ただ、私の研究領域では、もちろんどちらも覚えているに越したことはありませんが、酸性アミノ酸・塩基性アミノ酸・疎水アミノ酸などの性質をざっくりと知っていれば構造まで知らなくてもいいし、コドンに至っては開始コドンと終了コドンを知っていれば基本的に困ることはないと思っています。必要になった時に書物を紐解いて確認するだけで十分に用をなします。だから、調べたら済む知識と、調べた知識を理解し利用できる能力は別のところにあると思うのです。調べたら済む問題の知識も入試では問われるでしょうが、それは定期試験で問う必要は無く、入試前にとにかく覚えるということで良いのではないかと思っているのです。あとは仰せの通りで、受験レベルでの深い理解に到達させるために「カンニング学習」をさせるとすれば、先生の努力は言うに及ばず、生徒さん側にもかなりの能力が必要となると思いますが、受験には関係のない生徒さんにも教科書に書かれているような「表面的な知識」の一層下に潜在する生物学の面白さに気づいてもらうために「カンニング学習」は役に立つと思っています。ただし、その場合も先生方のご苦労は察してあまりあるくらい大変なものになります。
「そんな遊びの授業ができるのは受験を意識していない底辺の学校だけだ」のようなことを言う先生もいらっしゃるでしょうが、その先生は考える努力を途中でやめた人だと思います。その生徒たちに応じていくらでも工夫ができるはずなのに、その工夫を考えないと言うことでしょう。「できない」ことへの言い訳はそこらじゅうに転がっています。努力せずに言い訳を探すことのほうがはるかに楽ですし、橋本も含めて多くの人が日常的にこれをやっているのだろうと思います。その意味でも、「できないは先生の側」というのは、まさにその通りだと感じます。この方法は「生徒を選ぶ」のではなく「先生を選ぶ」とした方が現実にかなっているかも知れませんね。部外者が言いすぎていますね。ご勘弁の程を。