作問してみること

勉強方法は人により様々で、一冊の本をじっくり読む人もいれば、一冊の本を一気に読み切ってからあらためて最初から読むことを繰り返す人もいます。橋本は、こういうやり方では勉強が進まなかったので、同じ内容が書かれた別の書籍を読むという方法をとっていました。今は大学院受験のための教科書的な書籍があって、基本的にはそこから出題されますし、学生もその本だけを読んでいれば試験に通るのですが、私の頃にはそういう「教科書」的なものがありませんでした。だから、「発生学」という分野にしても著者の数だけ本がありました。著者が違っても同じ内容が書かれているはずなので、どっちを読んでも同じだと感じられる方がほとんどかもしれませんが、個人的な感想を言えば、同じ内容でも著者(書き方・分脈)によって見える景色がまったく違うのです。今となればこれは当然のことで、一つの現象を記載するにしても、どの角度から切り取るのかによって見え方が異なります。だから、ある角度から書かれた教科書で勉強しても、同じ現象を逆の角度から見た問題を解けないのです。だから、できるだけ異なる専門書を読みました。そうすることで、その辺りの理解が進んだと思っています。

さて大学時代、植物生理学の試験勉強をしていた時の話です。細かいことは忘れましたが、試験範囲の内容が記載されている様々な本をひたすらに読み耽っておりました。そうすると、不意に「この範囲で出題するとすれば、これとこれとこれの3問以外にはないはずだ」と感じる瞬間がありました。「この3問さえ解ければ、この範囲は理解できたと言える」と感じたのです。ただし、それでも枝葉末節の(どうでもいい)ところ内容や単語を出題される可能性もあります。まあ、そうなった時には諦めようと腹を括りました。で、いざ受験をすると思った3問がそのまま出題されていました。

ここで言いたいことはいくつかあるのですが、まずひとつは、その範囲を全体として理解できたら問われる内容が想像できるということです。だから、そのポイントだけをカンニングペーパーに書けば済みます。要するに、要領のいい生徒が作るカンニングペーパーはこういうポイントを上手に押さえていると考えられるのです。もうひとつは、その試験範囲から「もし自分が出題するとしたらどういう問題を作るのか」について考えてもらうと、も含めてありとあらゆる問題を作ることは可能でしょうが、「この範囲の理解度をもし自分が問うとしたらどういう問題を作るべきか」に焦点を当てれば、もっと言えば「エレガントな問題を作りなさい」と「出題」すれば、そこを考えるだけで最も理にかなった勉強をしていることになるだろうと感じるわけです。それから、これはここでの議論とは少し異なりますが、異なる切り口の文章を読んでみると、その著者ならではの「多様性」と、どの著者でも避けては通れない「普遍性」に気づきます。これは同じ著者の本だけを勉強している時には気づかないことです。そして、その「普遍性」の部分こそがおそらくは本質であり、出題もそこからされることが多いだろうと気づきます。さらには、その普遍性に気づくことで出題されるであろう問題を予測できると思うわけです。

いろいろと書いていますが、すべての文章で共通して言いたいことは「関係性のネットワークを構築するにはどうするべきか」ということです。「関係性のネットワーク」が脳の中に構築できればすべての要素に意味づけができます。個々の要素ひとつ一つが他の複数の要素と何らかの形で繋がって意味を担保されます。こうなれば単語の丸暗記すら必要ないことになると考えるのです。理屈ではこの通りだと思いますし、自分の経験でもかなり有効な勉強方法だと思うのですが、具体的な技術として明示できないところがまだまだだなあと思うところです。橋本には試行錯誤どころか「試行」する術がないので、ただただ机上の空論を展開させているだけで終わっています。