多様性と普遍性

学生の頃、前館長の岡田節人さんに言われた言葉を今でも覚えている。

「多様性の中にのみ普遍性は成立する」だ。

 

特にこの10年ほど、私は発生過程の共通性・普遍性について考えている。

これは遺伝子の共通性ではなく、発生現象・過程に関する共通性である。

分類群が異なるのだから形づくりの様式が異なっても構わない。

他方で、分類群が同じであれば発生様式に共通性があるべきである、と思う。

綱が異なれば形づくりの仕組みが異なって当然だろうし、

しかし、門が同じであればどこかに共通の仕組みでかたちが作られなければならない。

だから、差異を徹底的に排除し、残った本質を見極めれば、

そこにはその分類群に共通する形づくりの機構が見えてくるはずであるということだ。

 

ではなぜ、「遺伝子ではない」としているのか?

特に形の進化を考えた場合には、

共通性を遺伝子が積極的に維持しているように思えないからである。

発生機構に共通性が見えている場合に、

その共通性を担保しているのは遺伝子だろうか?と考えると、

それは違うと思わざるを得ない。

紋切り型の表現で恐縮だが、エントロピーは増大する方向にすべての変化は動く。

だから、遺伝子単独、あるいはその遺伝子の働く「セット」にかかる変異も

すべて中立であると考えることは間違えていないだろう。

放っておけば遺伝子に変異は入り続けるだろうし、

そうすれば、発生過程にも徐々に多様性が生じなければならないし、

発生過程が多様となり、結果として生じる形態も多様であるのは事実でもある。

にもかかわらず特定の発生現象が、その本質において普遍的共通性を持っているとすれば、

その共通性の維持のためには何らかの圧力がかからなければならない。

その圧力を「発生拘束」と私は呼ぶ(https://hashimochi.com/archives/6852)。

 

結局は、発生過程の特定の時期に特定のかたちを経なければならないとすれば、

その段階のはるか前にはある程度のゆらぎは許容されるだろうが、

そのゆらぎは、その段階に近づくに連れて小さくなり、

その「特定の時期」には許容される変異は本質的には限りなくゼロになると考える。

これは発生の砂時計モデルを創造していただければ分かりやすいだろうが、

その分類群を構築するためには特定の形(あるいは形態形成過程)を維持し続けなければ

その分類群として成立できなくなるということで、

結局は、遺伝子の働きがこの普遍性を担保しているのではなく、

あくまでも発生過程を誠実に繰り返すことこそが

その分類群をその分類群たるものとしていると私は考えるのである。

だからこそ、特に形づくりの過程の共通性を知ることにこそ

その分類群の進化の意味が隠れていると信じているわけだ。

 

私たちは、ツメガエルの原腸形成機構について長いあいだ考えてきた。

ツメガエルでひとつのたたき台を作り、それを他の両生類と比較することで

両生類に共通する原腸形成機構を見いだしたと思っている。

この新しいモデルは、長年教科書に書かれているモデルとは質的に異なっている。

この「新規の視点を与えてくれるモデル」を他の脊索動物の仲間と比較することで、

脊索動物あるいは脊椎動物に共通する原腸形成機構が見えてくると思っている。

ここで重要なのは、ある綱に属する特定の種と,別の綱に属する特定の種を比較してはならないということ。

たとえば、ゼブラフィッシュやメダカなど真骨魚類の原腸形成は非常に特殊であり、

四足動物から羊膜類へと続く流れからは逸脱して、

言わば「進化の袋小路」に入り込んだ発生過程をたどると思うのだが、

これが魚類の代表として両生類や羊膜類と比較されることは避けなければならない。

同様に、たとえば有尾両生類と無尾両生類ではその発生過程が少し異なる。

だからこそ、それらの違いを徹底的に排除した先に存在する共通性をもって、

他の綱の原腸形成過程と比較しなければ何も分からないと思うわけである。

異なる分類群の中の極端と極端を比較して、

その間に無理やり共通性を見いだそうとしても、

そこには間違えた解釈しか存在し得ないように思う。

私が生命現象の共通性にこだわる理由はたぶんこの辺りにあるのだろう。