多様性と普遍性
種分化の瞬間、瞬間といっても長い時間がかかるのだが、
その時のことを考えてみる。
種が分化する時に、結果的に新しい種になる生き物も、
新しくなろうとなんて望んでいないし考えてもいないだろう。
いや、こういう恣意的なというか感情を入れること、擬人化することが、
状況を混乱させているのは先日も書いた(https://hashimochi.com/archives/5923)。
ただ、あえて今日はこの書き方をした意味が私にはある(と思っている)。
あらゆるものをそっくりそのままマネをしようとする。
いかに完璧にマネをしても絶対に違いは出る。
それが個性だ。
だから、たとえ遺伝的に同じであるはずの双子であっても違いがあるのだろう。
でも生き物は基本的に同じものを作ろうという努力をし続けている。
それが発生現象の本質だろう。
だから、ゲノムにいかなる原因があり生き物として変化せざるを得なくなっても、
これまでと同じ発生過程を辿り、同じ生き物になろうとする指向性は必ず存在するはずだ。
その足掻きにも似た「意思」の存在の上で、
しかし、同じにはなり得ないときに個性が生まれ、
それが決定的な違いとなった時に生物学的な意味での多様性が生まれる。
だから、生き物は新しいものを目指していてはならないのである。
何かのために変わろうとしては多様性などというものは生じない。
徹底的に足掻きに足掻いて、いまの自分を守ろうとしてもそれができないとき、
「仕方なく」新しい生き物として生きていく道を選ぶ。
その「今のままを守る努力」を持ち続けるからこそ、
「仕方なく」新しい生き物になってもそれをそのまま維持しようと努める。
それが新たな、そして独立した種が出来上がる原動力となる。
出来上がる原動力とはそれをそのまま維持できる力である。
変わり続けることを目的としたら、
独立し確立した種という個性は生じ得ないだろう。
進化とは自分をそのまま守り続けるという生物の本性を元に成り立ってきた結果である。
DNAは半保存的複製をしこれまでと全く同じものを作る努力を怠らない。
DNAに変異が入っても、それを可能な限り完璧に修復する仕組みを備えている。
それが生物の本質であることは間違いない。
岡田節人は、「普遍性とは多様性の中にのみ存在する」といった。
同じことを探求しても同じことは見いだせない。
他人と変わったことをしても、それが個性には結びつかない。
芸術とは模倣であるといわれる。
真似てまねて、徹底的にまねてみても、完全に真似ることはできない。
必ず違いができる。それは仕方ないことである。
その違いが個性である。
多様性なのだ。
個体発生と系統発生、発生と進化、の関係とは、
結局は生命の業(ごう)のようなものなのかもしれない。