小説と物語

ノーベル賞の中で、平和賞と文学賞は政治的偏向があるといわれる。

その真偽は分からないから何も述べるつもりはない。

というか、そもそも一団体が与える権威であり、

そこに偏向があることに異を唱えるつもりもない。

ただ、文学賞というものに対して理解できないことはある。

「そもそも政治的偏向があるのだから選考に文学の質は問わない」のであれば、

この議論自体が成り立たないのではあるのだが・・・・。

 

さて、私だけの感情かもしれないが、

文学とは、文章が醸し出す表現力だろうと思っている。

決して物語の面白さや斬新性ではない。

もちろん物語が面白いに越したことはない。

ただ、それはたとえばPCのゲームを新しく考えることに変わらないように思う。

それと「文学」とは全く、徹底的に異なるものでなければならないとすら思う。

もちろんこれはその価値の高低や、立場の上下あるいは貴賎とは違う、

もはや比べるのが不可能な違い、長さと重さの違いのようなものだと捉えている。

 

例えば小説の映画化やテレビドラマ化がなされた場合に、

多くの場合、主となる筋書き以外は原作と比して変わっている場合が多い。

特にテレビの十数回のシリーズものになれば、

元の小説のままでは量が足りないからだろうか、

大幅に「加筆」されたものとなるような気がする。

これはもちろん原作者の力ではなく脚本家の力だろう。

ただ、これは筋書きを作る能力であり、

ストーリーテラーとしての才能であって文学者(表現者)としての能力とはことなる。

 

同じものを見てそれを文章に直す時に、

二つとして同じものはできてこないだろう。

そこに個性があり、その個性とは物語を紡ぐ能力とともに表現力、

すなわち正しいことばを作る能力と美しいことばを作る能力である。

心の中身までもことばで言い表せる力だし、

時として、読み手にその感情を芽生えさせるだけの力だろうと思う。

 

で、ノーベル賞である。

どうやってこれを評価できるのだろうかという疑問である。

日本語で書かれた文章の美しさや巧みさ、

日本建築や雅楽、漆器に日本料理、なんでもいい、

その美しさを西洋建築やクラシック音楽、洋食器やフランス料理に似せて作って

その本質が理解されるかということである。

それこそ、本物の日本料理を伝えるとしたら、

本物のフランス料理で表現するしかないだろう。

日本料理に似せたものでその本質が伝わるはずはない。

その作家の作った物語/ストーリーはあくまでも表情の一つである。

それを支える身であり骨である部分はその表現力であり文章能力である。

それをヨーロッパのことばに翻訳して何が残るのか?

もっと滑稽なのは、例えば中国語で書かれた小説と

日本語・韓国語・・・・・その他諸々の言語でかかれた小説を

英語(?)に翻訳して比較し優劣を付けるという作業に意味が見いだせないのだ。

そこに残るのは、その小説のストーリー展開の「面白さ・独創性」だけである。

 

ただ、私は日本語の「文学」ということばを前提に議論をしている。

その「文学」ということばも、日本人によって感じ方は異なるかもしれない。

だから、ノーベル賞の意味する「文学賞」は「ストーリー賞」なのかもしれない。

まあ、それにしても異なるストーリーに優劣を付ける意味が分からないのは同じなのだが、

「ことば賞」の意味ではないのであれば少しは分かるような気もする。

ただ、それならアニメの原作も対象に入れていいと思う。

というか、アニメ自体も競争相手にすればいい。

宮崎アニメのストーリーって独創的だし面白いと世界に認められているのでしょう?

やはり、文学の力とはことばの力である。

そこを無視しては何も生まれない。

そう思えてならないのである。