言語に対する淘汰圧とは?2
1(https://hashimochi.com/archives/5918)を書いてからやけに時間がかかりました。
その間に推敲を重ねていたわけでもなく、
ただ、他のコラムを書いていたら何となく時間がたっただけなので
過大なご期待があったとしてもそれを満足させるものではございませんが・・・・。
さて、この言語の「生殖能力」についてだが、
ゲノムが具現化した生きものの生殖能力とどのような関係があるのだろうか?
その前に、言語におけるこのような変化って種分化レベルの位置づけをしていいのだろうか?
これはおそらくよくはないはずだ。
単なる多形くらいにしかならないだろう。
では、日本語という言語の種分化とはどういう状況なのであろうか?
東北弁や名古屋弁などの方言は互いに異なる種なのか?
それは違うだろうと思う。
というか、では英語と日本語は門レベルの違いのような認識で構わないのか?
この議論には何度か立ち入っては尻尾を巻いて逃げ出してきたが、
この辺りの整理をしっかりしないでゲノムと言語の類似性を議論しても、
蝶々の翅とニワトリの羽を比べるようなことになって終わるだろうなと思う。
まず第一の問題は、交雑可能性をどう考えるのかだろう。
単語の持ち込み程度は交雑ではない。
日本語に英単語を組み込んでもそれは交雑ではない。
というかこの考え方は逆であって、
そもそも、単語そのものに意味はなく、
単語と単語の、単語と文章の、様々な品詞の、様々な文脈の関わり合いが言語であり、
この関係性が維持されている限り同じ言語と考えて良いと思う。
ただ、ラテン系の言葉は互いにある程度の理解は可能らしいので
異なる言語に分類するべきなのかどうかってのは私の能力を超えている。
ルーマニア語とイタリア語とポルトガル語とスペイン語と・・・・、
何となく日本の方言に近い感覚はあるがその理解で良いのかは分からない。
この議論の難しいところは、私に言語の知識が全くないからである。
感覚的にものを言っているが、その論拠があまりに頼りない。
日本語と琉球語とアイヌ語はまったく異なる言語だろうと思う。
朝鮮語と中国語も異なるだろう。
でも、その違いは私には分からない。
ただ直感的に中国語と朝鮮語の間に交雑はできないと思うし、
日本語と英語の交雑も不可能だろう。
ただこれは単純に関係性の違いという意味合いから内部淘汰として処理されるべきだ。
そこで問題の「自然淘汰(外部淘汰)」が言語にかかるのか?ということになる。
言語の体系としては成立するものの
環境との関係でそれが維持できないというのはどういうことなのだろう?
宗教による淘汰圧は比較的考えやすい。
ただ、これも初めに言語があり、その条件下で意味付けされるということで、
宗教感から新たな言語の発達が妨げられるとも思えない。
見方を変えてみよう。
手話というのはもちろん人間が考え出した言語だろうが、
面白いことに「自然発生的に生じた言語」と同じ性質を持つらしい。
元々は人間が人工的に作ったものだ。
それが言語として使われている過程で
言語としての性格をもち始めたのだろう。
言語として当然あるべき方向に向かう圧力がかかったと考えて良いように思えるのだ。
ここに言語のかたちがあるのだろうと思う。
この考え方を推し進めると、
種々の言語というかたちの根底には言語として存在する以上は当然有するべき
根本のかたちがあることを意味しているのではなかろうか?
チョムスキーは「種としての人間が固有に持っている普遍的な言語能力」を想定したが、
これを人間が持つ能力という立場で見るのではなく言語自体の視点に立ってみると、
おそらく人間が言語として受け入れるために必須のかたちがあり、
そのかたちを持つものしか言語として認識できないと考えればどうだろう?
こうすれば、たとえば遺伝情報はDNAに書かれており、
セントラルドグマに従わなければいっさいの生命活動が行なわれないという根本の拘束が、
「生きものが固有に持っている普遍的な生物を規定する能力」、
チョムスキー流にはこのように言えそうな拘束が、
言語にも存在するということなのだろうか?
この意味においてゲノムも言語も単なる情報ではない体系のひとつであろうと思える。
ただ、これは淘汰圧以前の問題であり、
生物であるか否かと同じレベルで、言語であるか否かという根本の問題だろう。
DNA以外の遺伝情報をもつものを生命体と(少なくとも地球上では)言わないように、
この種としての人間が生得的に持つ能力を満たさなければ言語として認識されないとすれば、
これは淘汰の議論の対極にある問題だということだ。
いや、対極というよりも、お釈迦さんの手のひらで孫悟空が暴れているような次元の違いだろう。
そう言えば、手話も国によって異なる。
根本のかたちを満足する限りは、その「手のひら」の上に異なるかたちをつくることは、
DNAやセントラルドグマの上に異なるゲノムを作るというレベルと同義なのだろう。
こう考えると、やはり普通に考える「ことば」の違いが分類群の違いに落ち着くという、
ここまでややこしい議論をするまでもない結論になった。
長くなったので、続きはまた後日。
面白いですねえ。
淘汰についてはちょっと保留して、「言語の交雑可能性」で橋本さんが言いたかったのは、
1)文法が同じであれば言語は交雑可能である。
2)個々の単語が異なっていても言語は交雑可能である。
の二点と考えても良いですか?
文脈まで同一を厳密に求めたら、全く同じ言語以外、交雑可能性は不可能と思うのですが
これはどうなのでしょうね。厳密性をある程度、ゆるく保つというのが大事なのかもしれませんね。未
ちょっと時間がたってから気づきましたが、
私が前提する言語の交雑可能性と、橋本さんの意図する交雑可能性では違うかもしれないと
思いました。コメントを書いた時点では余り考えずにコメントしましたが、
まじめに考えれば
・異なる言語を話す話者間で、相手の話を聞いて相手が伝えたいメッセージを理解できれば交雑可能。
・理解できなければ交雑不可能。
の二つで定義するのが良いように思います。そして、このように考えると、
先ほどの私のコメントで「淘汰はちょっと保留して」と書きましたが、
淘汰こそが重要で、保留することはできませんね。
つまり、理解できたかどうか、という淘汰に合格すれば交雑可能。
淘汰に不合格なら交雑不可能。
そして、ここまで単純化すれば、「種としての人間が固有に持っている普遍的な言語能力」を持ち込む必要は無くなるような気がします。
いや、難しいですね。申し上げたいことを表現する難しさです。もうこのレベルになると私の日本語の作文能力を超えてきます。
とりあえず前ふたつのコメントに対する感想ですが、まず、私には「文法」なるものの存在を認めることはできません。文法はア・プリオリに存在するということは考えられないということです。文法とは、その言語に潜む規則性らしきものを人間が勝手に抽出しただけのものであり、それが言語の本質とはまったく思えないからですが、まあここに「言語とは何ぞや」って問題が存在するのでしょう。同様に、文脈という言葉の意味もいまいさんとはかなり異なっているような気もします。私の規定する「文脈」とは、「(おそらくは時間軸を伴う)関係性」のことですが、この説明ではまったく意味不明ですよね?この辺りの「雰囲気」ってなかなか共有がむずかしいかも知れないですね。