言語の感覚
someとanyの意味は日本人には理解できないそうだ。
sometimesは、「そういうときがある」って感覚らしい。
で、以前にも書いたが日本人は時々としばしばの意味の違いがわからない。
というか、これは逆に英語から生じた感覚として、
oftenの約である「しばしば」とsometimesの約である「時々」の意味を理解している。
だから、sometimesとoftenを理解するためには、
そこに潜在する感覚を理解するしかない。
それが理解できれば、たとえ日本語で話していても、
英語を母国語としている人の感覚と同じだと言えるのだろう。
さて、この「感覚」というのは、実は言語を越えている。
「英語で考えなさい」と言われるのだが、
英語で考えるというそのままの意味ではない。
英語圏の人たちが考える方法で考えなさいということであり、
考えるときの言語が日本語であってもまったく構わない。
ただし、物事を考える時に言語を介在させると、
思考はゲシュタルト崩壊してしまうので、
実際に考えるということは現実の言語の議論とは異なる。
ここで重要なのは、言語という実在はそこにはないのだが、
言語で表現される物事はその言語の関係性(かたち)により成立しているわけで、
そのかたちは、たとえ言語を用いていなくても、思考しているときの脳の中には存在する。
そして、そのかたちの成立には言語が間違いなく関係している。
だから、直接的に言語は関与していないとしても、
論理的思考に言語は必須であるということになるのであろう。
母語となる言語の関係性を獲得していない限り
その言語の感覚は脳の中には形づくられない。
英語に訳せない日本人の感覚、もちろん日本語に約せない英語の感覚、
これらはその言語体系を獲得し、
その言語のかたちを脳に作った上でなければ理解できない。
口惜しいという感覚はアメリカ人には理解できないらしいが、
もちろん日本語のかたちを脳に築けばたとえ英語を話していたとしても
口惜しい気持ちにはなれるはずである。
これが言語と思考の本質的結びつきなのだろうと思う。