言語に対する淘汰圧とは?1

言語は時間により変化する。

その変化は、物理的に隔離されてしまえば大きくなるという意味でも、

ゲノムの変化に似ている。

日本語は変化を受けやすい言語のようだ。

その証拠に私たちはほんの100年前の日本語を読めないし、

150年前、あるいは200年前となったら絶望的だろう。

しかし、一般に英語は(おそらく仏語や独語などでも)500年前の文章を読める。

この辺りに、変化を受け入れやすいか否かという言語による差異が見える。

これは、変化を受け入れやすいという話よりも

むしろ淘汰圧を受けやすいか否かという議論の方が正しいように思う。

では、言語にかかる淘汰圧とは一体どのようなものなのだろうか?

 

まず、ゲノムにかかる淘汰圧を考える場合に

内部淘汰と外部(自然)淘汰を考えなければならない。

内部淘汰とは、ゲノム自体の関係性を維持できるかどうかということであり、

ある変異が、そのゲノムの形を維持できなければ、

その変異は外的要因にさらされるまでもなく生きものとして具現化できず、

したがってゲノムとしては残り得ないということだ。

対して外部(自然)淘汰は一般に知られる「淘汰」である。

ゲノムとして成立し、生きものとして具現化したものが、

他の生きものとの関係の中で、あるいは温度湿度その他の周辺環境の中で

子孫を残していけるか否かという議論である。

 

で、ゲノムにかかる淘汰圧はどうなのだろうか?

まず、ゲノムを考えた場合に新しい変化を受け入れる素地があるかどうか、

すなわちゲノム自体の形の寛容度・柔軟性が考えやすい。

それこそ日本語は視覚言語として捉えた場合に表音文字と表意文字を組み合わせた言語であり、

その点に外来語を容易に取り込める柔軟性は理解しうる。

ただし、言語の発生の順番として間違いなく聴覚言語が先なので、

この辺りを直接的に議論することは難しい。

でも逆に考えてみれば、もともとのかたちの柔軟さが、

視覚言語として表される時に表音・表意の両者を受け入れられたと考えられなくもない。

この辺りはあらためて考察した方がよいだろう(私の手に負えるとは思えないが)。

ただ、現実として我々は文字に表すこともなく、

新しい言葉を普通に受け入れているという事実はある。

この柔軟性こそがおそらく日本語の進化速度の早さに影響している。

 

さて、この議論でいけば変化の早さは内部淘汰(言語自体のかたちの柔軟さ)で済みそうだ。

しかし、いくら日本語自体がその変化を受け入れられたとしても、

その変化が周辺環境に受け入れられなくては残り得ない。

ここを考える時にゲノムとの違いが浮き彫りになるように感じる。

ゲノム(が具現した生きもの)の周辺環境とは、

別のゲノムであり、あるいは物理的環境であろう。

しかし、では日本語の変化が周辺言語との関係性によって淘汰され得るのかといえば

それははなはだ疑問である、というよりもきわめて受け入れ難いと感じる。

同様に、気候条件などあるいは地理的条件を含めた物理的環境に影響されるとも

にわかには考えにくいのである。

だからこの場合には周辺環境からの自然淘汰というよりも、

自分自身が残りうる能力、すなわち生殖能のようなところにのみ問題が絞られそうに思う。

言語の生殖能力(この表現は誤解を生みそうだが)とは何か?

それは言語が言語として機能する能力、

すなわち情報としての能力をさすと一義的には考えられる。

いかなる言語もコミュニケーションの道具として存在するわけで、

とすれば、新たな変化が通じなければ生き残れないのは明らかだ。

この「通じやすさ」あるいは「意味付けされやすさ」が

日本語の変わりやすさに重要であるのは間違いないだろう。

まあ、これに関してはその対照として

「変わりにくい言語」としての英語の場合と比較しなければならないだろうし、

比較によりこの淘汰圧が明瞭になる気はするのだが、

いかんせん、これは明らかに私の能力を超えているのでまったく議論ができない。

これはかなり口惜しいなあと思うがどうしようもない。

なぜ、日本語と比較して英語がここまで変化して来なかったのか?

その考察をしてみたいなあ・・・・・。

 

ちょっと長くなったので、またあらためて。