盗作
たまに小説などに盗作疑惑が報じられる。
本当の意味での盗作は論外なのだが、
結果的に盗作となることがあるのは分からないでもない。
現在何か書籍を読んでいるとする。
内容に共感し、自分の文章(たとえばブログとか)にそのことを書こうと思う。
その際に必ずと言えるほど元の文章の影響を受ける。
文体や言い回しが似通ってくる。
その表現でしかその内容を理解していないのだから
それはある意味当たり前であろう。
だから私は、そのときに読んでいる本の内容をブログに書いたりしない。
「しない」というよりも「できない」のである。
書いても、文章そのもの,表現そのものが似るので、
その指摘を受けたら言い逃れができないのだ。
とりあえずその文章をブログの下書きに残し、
その本を読み終わってから少し時間をおいて
あらためて文章を推敲する。
自分の頭の中である程度は噛み砕いてから
自分の言葉でそれを表そうということである。
もともとそれを受け入れる素養があればある程度の対処はできるかも知れないが、
特に、その本ではじめて触れた思想や表現は私にとってそれがすべてなので、
他には書きようがない。
だから、その考えに触れてからしばらくはずっと考え続け、
ある程度は自分のものにしてからでないと自分の言葉で表せない。
自分の文章ですら、書き直す時には元の文に影響される。
高名な小説家が盗作の疑いをかけられたとき、
疑わしいすべての小説を破棄してこう説明した。
「以前にメモとして様々な小説の文章を記録していたものが、
自分の文か他人の文かが分からなくなり
結果として盗作となってしまった」。
これはすごくよくわかる。
もっと言えば、話し言葉も書き言葉も、
必ず誰かの影響を受けている。
複数の影響を受け、それらが混ぜ合わされて自分の言葉となるので、
それ自体は盗作の疑いをかけられることはないだろうが、
決め言葉のようなものは、文章そのものをまるまる誰かから頂戴することもある。
知らず知らずのうちに表現を盗作しているかもしれない。
そう考えると恐ろしい。
なぜこんなことを書いているのか皆さんにはお分かりのことだろう。
いま数学の書籍を読みあさっている。
そのなかに私にとっては新しい考え方を見つけ、
それを文章にまとめようとしたのだが、
どうにも自分の言葉にならないのだ。
元々つたない作文能力なのだが、
それに相まって書くことの推敲すらできていない状況ではどうしようもない。