言語的思考とは?
思考するとき、頭のなかに言葉があれば、
なかなか考えがまとまらないような気がする。
言語に変換しようとすると思考は堂々巡りする。
言葉だけがぐるぐる回っている感じだ。
真剣に、一心不乱に思考しているときをふと思うと、
頭のなかには言語環境はないような気がする。
そういう時って、ただただ思考の論理に没頭し、
論理体系がまとまりよく閉じるように組み立ててる。
「ハッ!」と何か新しいアイデアを思いつくとき、
たぶん言語による思考の結果ではなく、
言語化できない(言語の論理体系とはまったく別の)論理過程の帰結だろう。
で、英語を話す時に、頭の中を英語的に切り替えて話す。
そうしないと英語を話すことが私にはできないからだ。
でも、英語という言語自体が頭にあるわけではない。
むしろ頭の中には英語も日本語もない。
ただ、ものの切り取り方とか感じ方を英語風にしないと
英語を口から発したり耳から入れたりできにくいのである。
だから、英語を話さない日本人と日本語を解さないアメリカ人が同席するとき
私が何となく通訳みたいになることがあるのだが、
それがなかなか難しいのだ。
同時通訳ができる人は心からすごいと思うし、
外国語の能力とは別の特殊能力だとすら思っている。
で、何がいいたいのかと言えば、
論理的思考に没頭する時には言語は頭から追い出されていると思うのに、
でも、言語とは別の次元で言語に思考が影響を受けているように思える。
以前から、英語を母国語としている人と日本語を母国語としている人の考え方は
真逆と言っても間違いではないくらいに違っていると書いている。
しかし、そう書きながらも、思考や論理は言語と同じ次元にあるとも言っている。
すなわち、例えば哲学的論理は言語の論理体系と同等のものであり、
例えば数学の論理と言語の論理は全く別の体系であるように、
哲学の論理と言語の論理も別の体系であると言っているのだ。
この考え方は自分の中に大きな矛盾として存在し続けている。
で、いまのところの落としどころは、
英語圏の人たちと日本語圏の人の間には、
論理の元となる情報の切り取り方が異なっているのではないかというところだ。
脳にインプットされる情報の切り取り方が異なるからこそ、
そこから構築される論理体系にも影響を与えるのではないかということである。
しかし、その違いが何によるのかと考えれば、
それは言語だと言わざるを得ない。
私は言語も哲学も数学も、
とにかく論理体系というものはすべて同じ階層にあると思っているのだが、
言語体系を獲得せずにその他の論理体系が脳に構築されるのかと言えば、
それは絶対に違うと思えてならない。
これは、言語体系が他の論理体系に比べて一段高次の階層にいるということなのだろうか?
あるいは、言語体系から、その体系の本質のみが脳の基本OSとしてインプットされ、
そのOS上でその他の論理体系は動いているのかもしれない。
この場合には、情報の伝達手段としての言語もまた
そのOS上で動くという二段階構造になっているのだろうか?
すなわち、言語という媒体から、その構造を脳に導入することと、
話し聞き書き読む意味での言語は質的に異なっているという考えである。
こう考えれば、聴覚・視覚言語と哲学大系などは同一階層として考えられなくもない。
この視点からあらためて聴覚言語と視覚言語について考えてみたらどうなるのだろう???
(この議論の延長もよかったらどうぞ)