エクスタシー

で、またミステリの話にもどった・・・。

 

昨日のこの欄にエクスタシーを感じる瞬間のことを書いた。

その時に、実験の結果のことを考え続けて夢にまで見たことを書いた。

その続きを書かせて頂く。

 

実は、前回に書いた「夢での発見」をこれまでに数回は経験している。

もちろん皆様にお話しできるような大きなことではないのだが、

それでも深く悩んでいる訳だから本人にとっては大発見だった。

 

「いま考えてわからないことはいつ考えてもわからない」

と考える傾向がなまじ頭の良い人にはある。

「別の実験をして、誰かに相談をして、あるいはもっと勉強をして、

新たな知見が増えない限り今のままでは考えるだけ時間の無駄である」ってことだ。

しかし、私はそう思っていない。

今の知見を並べ替えることができれば、それはすなわち大発見につながる。

そこには新しい知見は必要ではない。

この考え方は「かたち論」をご理解いただかないと納得できないだろうが、

この欄の読者には抵抗なく腑に落ちるだろう(と信じる)。

とにかく新しい知見は、今の知見のかたちを並び替えるきっかけにはなるだろう。

新しい知見が今のかたちに居場所を見つけられなければ、

その居場所を作る為の「並び替え」が必要であるからである。

しかし、新しい知見がなくてもその並び替えは可能なのである。

 

だから、私は学生と二人で、長い時には丸一日でも議論をする。

もちろん議論とは互いの話を聞き合うことであって

自分の意見を主張し合うことではない(https://hashimochi.com/archives/1897)。

こんな議論を始めると最初の頃は学生も戸惑う。

だって、20分も話せば互いの知識は底をつくのに、

そこからなにを話す必要があるのか?って疑問に思うそうだ。

普通なら「また、何か思いついたら議論しよう」

あるいは「新しいデータが出たら議論しよう」ってことでそのときは終わるはずである。

しかし、私はときに堂々巡りのような議論を積み重ねる。

カレンダーの裏や模造紙など、書いたことが消えないものを使って議論する。

これが予想以上に効果を上げることが結構あるのだ。

(これに関しては以前に書いた文章があるのでここに貼付けておく)。

 

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「思索と議論」

先日、研究室の紹介パンフレットを作りました。なんとなく作り始めたのですが、作ってみると得るものがたくさんありました。まずは、自分たちが完全に理解しているつもりの事柄を平易な文章で書くことができない事に気付き愕然としたことです。これは「本当は全く知らなかったのに、知っていると勘違いしていただけ」であることを意味し、そこからあらためて研究室一同が寄って議論を繰り返す事が始まりました。すると、いままで気付かなかったことに初めて気付かされることも多く、新しいデータが増えた訳でもないのに新しい発見がかなりたくさんでてきました。発生学の本質に関わるのではないか?と感じられるところにも新しいアイデアが湧き上がり、充実した時間を研究室全員で過ごせたのです。パンフレットは、生物学を専攻する大学生を対象に作りましたが、よろしければご一読下さい。余談ですが、パンフレットづくりに触発されて、「形・意味・差異・ゲノム」などについて今まで考えてきたことを体系的にまとめ始めています。週末に思索し翌週に載せる形式として私的ブログ上で「連載」しています。考えをまとめるというのも、やり始めると楽しいものですね。

ところで、私たちの研究室で最も重要視している研究の方法論は「議論(ディスカッション)」です。「議論」は「ディベート」とは全く異なります。「ディベート」はとにかくその場の言い合いに「勝つ」事を目的としますが、「議論」では勝ち負けは問題ではありません。自分の考えを相手に理解してもらうこと、そして相手の考えを十分に理解することが「議論」の唯一の目的なのです。「ディベート」では最初から複数の結論が存在し、どれを採用するのかが重要なのですが、「議論」では、最初の考えはたたき台に過ぎず、「議論」の過程を経て新しい考えを作り上げようということを最終目的にしています。

「議論」をしていると、しばしば面白い瞬間が訪れます。誰も新しいことを考えていた訳ではなく、新しい知見が加わった訳でもないのに、それまで全員が持っていただけの知識を元に、まったく考えたこともなかったアイデアがふと現われるのです。「かたち」は、構成要素の関係性である、とこれまでにも書いてきましたが、「議論」を深めることによって、全く同じ「構成要素(この場合は知識)」から新しい「かたち」が生じるのです。「意味」は「かたち」であると以前にも書きましたが、同じ知識の並び替えによって新しい「意味」が生まれる瞬間は快感です。

私たちの研究室での「議論」で、黒板(ホワイトボード)など内容が消えてなくなるものは使いません。大きめのカレンダーの裏などを使って、とにかく全員が自分の考えをそこに書きます。文章はむしろほとんどなく、絵や記号など、ひとつひとつの物事や考えなどを書き並べ、それらが他の物事とどのようにつながっているのか線や矢印で書き示します。疑問も反論もそこに書き足します。これはATP合成酵素の発見で知られるP. ミッチェルが採ってきた方法論です。最も古くて、しかし最も新しい道具は、思索と議論であるのでしょう。

新しい機械や新しい技術改革によって生物学は大きな進歩を遂げてきました。しかし、新しい機械や技術を使わなくても、脳みそを最大限有効に使うことで、誰も気付かなかった「意味」に到達できることもあるのです。そのために、「議論」は欠くことのできない重要な方法論であると言うことです。そして、大発見をしたいなら「競争相手を言い負かす」のではなく、「他人の話を聞く耳を持つ」ことが一番大切なのでしょう。

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引用が入って、少し間延びしたが話を元に戻す。

 

では、私が四六時中そのときの研究を考え続け、

夢に見続けているのかと言えばそれは違う。

でも、何かの時には文字通り夢に見るくらいにそのことを考え続けている。

もちろん無意識にだから、意識的に考えているのではない。

では、どういうことを考え続けているのだろうかと考えてみれば(ああややこしい)、

おそらく、堅固に見えるかたちが実はあやふやで頼りないことに

無意識下で気付いているときなのではないかと思えるのである。

だから、例えば新しいデータの入り場所があるはずなのに見当たらないようなとき、

無意識下のどこかでその場所の存在には気付いているのだが、

それが具現化してくれないもどかしさに頭が常時動き続けるのだろうと感じている。

まあ、あえてことばを当てるとすれば第六感ってところだろうか、

とにかく、今にも崩れそうな建物の横を通るときのような感じを持っていることは間違いない。

この感覚は、ミステリ小説の「最後の一言」を読む前の心の状況にも似ている。

「何か間違っている」のである。

「それはとても単純なこと」なのである。

そして「それには気付いている」はずなのである。

なのに「わからない」のである。

私だけでなく「誰にも分からない」のである。

でも、「誰にでも、小学生にでも分かる簡単な理屈」なのである。

だからこそ、それが解けたときのエクスタシーは何物にも代えられない。