国際卓越研究大学 その5

もう一つ考えたいことがある。おそらくは、国民の税金が使われているのになんの成果も出せないことを責められることを恐れている、あるいはそういうことを危惧しすぎて、偉い先生方にとって安全(安直)な方法をとった結果がいまなのではないかと勘繰ってしまう。結果が出ないと恐れるがあまりに結果が出そうな研究にだけお金を出す、どうなるかわからない研究を支援して結果が出ないと責められるから「選択」された研究にだけ大きなお金を支出する、こういう、なんの工夫もなく、なんの哲学もない、誰にでも思いつく方法を取る理由は、このやり方がひとまずは責任を負わずに済むと考えたのではないのだろうか。結果が出るのは5年後10年後だ。その頃には自分たちはその責任を負わされる場所からいなくなっているし・・・みたいな感じだろうか?

この考え方は「危機管理」の視点から大きな問題がある。何度か議論したが、このやりかただと自分たちの責任を問われづらいのだが、反対にその責任は現場の人たちが負わされてしまうこととなり、「お前を信じていたのに裏切られた」という、性善説にありがちな責任転嫁で終わらせることができる。

さて、国立大学も法人化されたが、それでもその原資のほとんどはいまだに税金である。私はそれで構わないと思っている。アメリカの私立大学があのような成果を挙げている一つの理由は社会制度がある。アメリカとはまったく異なる哲学や価値観、あるいは社会制度で動いている日本社会に、その枠組みだけを移植したって成功するわけはない、と思う。で、税金の無駄遣いという観点に照らしてもう一つ考えてみよう。国立大学の教員は一応は研究者のはずである。その人たちに最低限の研究を行なう資金すらも与えることなく放っておくことは税金(彼らの給料や大学の設備維持など、大学運営に関わる資金全般)の無駄遣いにはならないのだろうか?彼らの中には10年後にすごい発見をする人だって潜在しているはずだ。今の常識だけで判断して研究費を配分することで、常識外の研究の芽を摘んでいる。そう考えることはないのだろうか。

標題の「国際卓越研究大学」の制度批判をするつもりはない。お金をかけなければならない研究分野が存在するのは事実である。別途資金を融通して大きな投資をすることに意味はあると思う。しつこく書いていることで言いたいのは、「公費」を削って資金を集中させることの是非である。

いろいろと書いてきたが、この考えが「絶対的に正しい」と主張するつもりはまったくない。ただ、この手の議論がなされているのを目にした記憶がないのでちょっと書いてみた。こういうことを言ったとしても、偉い先生方からは「バカなこと」と一笑に付される。下々のものが偉そうに口をきくなとでも言わんばかりの態度を取られる。どの意見が正しいのかはやってみないとわからないし、正しい間違いではなく結果がどうなるかだけで判断されるのだから先の見える研究を選択するのだろうが、「選択」などせず個々の研究者に自由に研究させてみたらいいのではないか、本当にそう思っている。いうても詮なきことだなぁ。