なぜ(私が)英語の論文を読めるのか? その3
文章にしても漢字にしても同じことで、それだけを単体で切り出した場合には確実にゲシュタルト崩壊が起こっている。ゲシュタルトが記号となって意味をなすので、構成要素を切り出して単体で見たら意味は崩壊するってことである。。ゲシュタルト崩壊といえば、ある文字をじっとみ続けていたら違和を感じるようになるという例で理解されているが、一つの文字に限らず、熟語であってもゲシュタルトとなりうるし、文章や段落も、もっと言えば文脈や筋書きなども広義のゲシュタルトと認識しうる。ソシュールは、「人間は意味のあるもの(すなわち記号)しか理解できない」とした。意味付けできて初めて人は理解ができるわけで、それは語学力とは少し違うところにあるのかもしれない。なぜなら、これは以前にも議論したことだが、英語論文を私は読んでいるのだが、決して英語を読んでいるのではないからである。
英語の長文を読ませて、その中の一文を訳せという問題も、全体の意味を取ることなくその文章のみを訳すことに意味はない。また、その文章だけで意味を読み取れるのであれば、長文問題にする必要などまったくない。その文章だけでは意味が定まらない、あるいは複数の意味にとれてしまうが、前後の文脈が理解できた時初めてその文章を適切に訳出できる場合に長文として出題する意義がある。だから、単語を覚えるときも、その単語が使われている文章を覚えるしかなく、文章の意味を取るにはその文章が書かれている前後の文脈を理解するしかない。違う言い方をすれば、ある単語の意味だけを単語カードのような覚え方をしても、その英単語を実際に使えることはない。使われている文章中に置かれて初めてその単語に意味が生まれるということだろう。
違う方向の議論をしようと書き始めたのだが、書いている途中で(かなり初期に)予定外の方向に分岐してしまったので、御多分に洩れずこの標題では公開に適さない文章がいくつか溜まってしまった。今回はこの辺りで。また整理して出直します。