シニフィアンとシニフィエ その9
「日本人とアメリカ人では概念の切り出し方に違いがある」と書いたが、実際には、たとえ同じ言語を話すときであっても、ある人と別の人では切り出し方に違いがあるはずだ。たとえば、日本人同士が「責任」という単語を考えたときであってさえ、それぞれがまったく同じ意味を想定しているかと言えばそれは間違いなく違うだろう。言語を習得する時に、一つ一つの言葉や文章の意味を教えられたりしない。その言葉を耳にし、それを使用することによって、自分の理解を淘汰に晒す。ある言葉を聞き、「ああ、こういう意味だろうな」と思う。そして、その「意味」としてその言葉を用いると、その理解が間違っている場合には、会話が成立しない。その時に、自分の理解はその他の人の理解、あるいはその言葉が使われる「正しい状況」との齟齬を知る。実際には、ある言葉を一回聞いただけで、その言葉を用いることは普通はできない。その言葉が使われている複数の状況から、その言葉の意味を切り出す行為が必要である。また、その言葉を単体で用いるのは実はかなりの高騰技術であり、普通はその言葉が用いられている前後の文章も一緒に使用することがほとんどであろう。だから、その言葉が使われる状況に出会う頻度が多ければ多いほど、使える文章の幅が増えるし、その言葉自体の共通の理解により近づくことは間違いないが、それでも自分の理解とその他の人の理解が完全に等しいかどうかはわからない。
(つづきます)