制度か人か?

昨日の夕食で、辛いのんを食べながら読んでた新聞に

ヒューマンエラーの第一人者って方の話が出ていた。

(この「ヒューマンエラー」ってカタカナ言葉はどうにかならないのか?)。

酔っぱらった状態での怪しい記憶をたよりに書くこととなるが、

そこの本論は、何か問題が生じた時に「人間」に理由づけしたら対策は甘くなるってことだったと思う。

 

要するに、機器は(制度は、体制は・・・・)何もおかしくない。

それを動かした人間のミスによるものだという判断に疑問を投げかけているのだろう。

たしかに、JRの脱線事故では当初は運転手の過失で済まそうとした。

もちろん、運転手がちゃんと減速していたら事故は起こらなかったから

JRの言い分もあながち間違いとはいえないだろうが、

それを越えて、「人間はミスをするものだ」という前提での対策が

「人間のせい」にした瞬間に講じられなくなることへの危惧だろう。

 

そう考えれば、事故から学ぶべき教訓は多々存在する。

この十年くらいか、しばしば聞かれるようになった「ヒヤリハット」も

同じ思想から出てきた言葉だろうと感じる。

人間がおかしな態度を取る時に、

制度が、機器が、体制が、人間にそのような態度を取らせる仕組みになっていないのか?

ここの詳細な検討が重要であるということだ。

高度な機械を作り過ぎて人間が使い切れなくなったってのは

日本製の携帯電話によくいわれていることだろう。

もちろん携帯電話ならその機能を使わなければ済むだけの話で終わるが、

それが例えば自動車、例えば飛行機など人命に直結するとしたら、

しかも、無駄な機能ではなく必須の機能が先端化され過ぎて使いづらくなっていたとしたら、

たとえその機能自体の欠陥ではなく、操作する人間のミスによる事故であっても、

それはその機械の改善にも意識が向くべきだということなのだろう。

 

それは組織内での犯罪にも同じことがいえそうに思える。

犯罪を普通の人は起こそうと思わない。

しかし魔がさすことは誰にでもありうる。

だからこそ、たとえば誰でも盗めるところに現金をおかないことは当然であろう。

ここに性善説を持ってくる人はまあいないと思う。

でも、よくある犯罪で、一人の人が会社の通帳を管理しているとか、

その監査がまったく入らないとかいう状況で、

大金が横領されたりするのを見た時に、

それをその人一人の責任にして終わらせるのは違うような気がしていた。

もちろんその人をかばうつもりはない。

やったことは悪いことであるのは間違いない。

しかし、複数の人で管理していたら、きちんと監査していたら、

その人は犯罪に手を染めなかっただろうと思う。

やはり「人間のせい」にしたら事故や犯罪はなくならないのだろうな。

 

性善説を一般論として否定するつもりはない。

人を信じることは素晴らしいことだと思うし、

日常の人間関係において性悪説をとるより性善説をとる方が

あらゆる意味において円滑に進むことが多いだろう。

しかし、少なくとも事件や事故を回避するようなシステムづくり、

すなわち広い意味での危機管理体制の構築において、

性善説は責任逃れでしかないのは疑いようがない。

なぜなら、人を信じてシステムを構築するわけで、

何か問題があればシステムのせいではなくその人のせいだとできるわけだからだ。

どうすれば事件事故を未然に回避できるのかを考えるには

起こり得るあらゆる可能性を机上に並べたうえで

どういう対策を講じれば良いかを吟味するしか方法はないし、

そのためにはヒューマンエラーも俎上に上げる必要があるのは間違いない。