ディベートと宗教
大仰な標題をつけているが、いつもの通りそれほど大した話ではない。
最近も書いたが、ディベートに意味はないといつも私は言っている。たとえばビジネスなどの交渉において無意味だとは思わないが、「創造」という意味においては百害あって一利なしだと思っている。その理由は、ディベートの性格上、どんなことでも説明してしまうからだ。以前テレビで見たディベートの授業では、クラスの半分を「アルコールは有害である」とし、残りの半分を「アルコールは体にいい」として討論させていた。与えられた主張に理論武装を施して相手を論破するわけだ。学生自身の主義主張には関係ない。要は相手を言い負かせたら勝ちということであり、出だしに結論があるのだからそこからは何も生み出すことはない。この点が「議論(ディスカッション・ブレーンストーミング)」とは決定的に異なる。
カール=ポパーは科学を反証可能性を有するものとした。だから、「なんでも説明できること」は論理でも科学でもなく、それを「宗教」とした。先日の選挙で大負けした首相のこと。この人の「理屈(私は理屈だとすら思っていないが)」はディベートである。信念から生まれる言葉ではなく、理論武装を施してその時の状況を無理に正当化するに過ぎないと感じられる。総裁選の時に「国会で討論してからでなければ衆議院の解散はしない」ことの理由を滔々(とうとう)と語った。しかし、すぐに解散に踏み切った。その理由も理屈を重ねて「さも当然の如く」滔々と語る。この人が口を開けば全ての言葉がそうだと思うので挙げればキリはない。おそらくディベートには強い方なのだろうが、時に「アルコールは体に悪い」とし、時に「アルコールは体に良い」とするその態度に誠実さを感じられない。
ここでは時流に乗って首相を取り上げたが、多くの政治家にこの傾向がある。多くの場合に正解は一つではない。立場によって異なる正解がある。自論で説明できない事象があって不思議はないし、むしろそれが当然である。だから、その場合にどう対応するかについて考えなければならないし、それこそが危機管理能力だし危機対応力だと思う。危機管理とは「最悪を想定すること」から始まる。すべてを説明できるなら最悪のことなど起こらない。すべてを説明することの不自然さに気づかないのだろうか?