論理とは

私たち一般の人間が感じる宗教とは漠然としたものだろうと思う。

「漠然」という言葉自体が漠然としているかもしれないが、

言いたいことは、宗教を厳密に規定して信仰している人よりは、

純粋に己が思い描く神を信じる人の方が多いような気がする。

宗教自体を論理的に考えることなんかしないからこそ、

民衆の中で宗教は保たれていると考えてもいいようにさえ思う。

 

しかし、宗教を論理的に考え始めるとことは違ってくるような気はする。

これは、深くなるというのではなく、質が変化していくように思うのだ。

 

一神教、すなわち唯一絶対の神を崇めるのが宗教だろうと私は思う。

で、普通の人が信じる分には何も問題は起こらない。

それは、それは己と神との対話であって、

それ以外の何かが入り込むことはないから。

しかし、宗教の論理を突き進め実際の世界に照らして考えると話は違う。

論理的とは、議論が放散してはならない。

だから、その宗教観の中で議論は閉じなければならない為に、

論理的にはその宗教観の成立に邪魔となるあらゆる世界観を許容できなくなるはずだ。

だからこそ、その宗教観を論理的に成立させる為には排他的にならざるを得ないだろう。

特に、別の宗教に対しては敵対的にならざるを得ないような気がする。

 

例えばキリスト教原理主義の団体は進化論を認めない。

しかし、一般のキリスト教信者が進化論を否定するかといえば違うだろう。

原理主義的に物事を考え進めると科学的に認められている事柄ですら許容できない。

理屈を突き詰めれば進化論すらも認めるわけにはいかないのではなかろうか?

やはり思考過程のどこかで「まあまあ」ってのがなければ

あらゆる論理は極論に走らざるを得ないのだろうと思う。

特にそれが存在の根源に関わる問題である時に、

それを突き詰めてしまうと逃げ場を失う。

 

カール=ポパーは科学と宗教の違いを反証可能性で説明した。

すべてを矛盾無く説明できるのは宗教であるとした訳である。

それは自己完結型の論理であり、

すべてを自分たちの論理によって「定義」し説明するのだから、

そこに矛盾の生じる余地はないだろう。

というか、これは一種の循環論法に他ならない。

なぜなら、定義は議論の初めになされるものであり、

その定義により論理を積み重ねていくのが議論の基本であろうが、

自分たちの論理体系から物事を定義し、その定義により議論するのだから。

 

ここで、一般論としての宗教について話しているが、

実は科学者の中にも自己完結型の論理を構築するものが少なくない。

ある意味で「自分は神だ」と思っているとも言えるのだろうが、

自分の意見のみが正しいとして論理を構築し、

その論理により他人を攻撃する人間がたまにいるのである。

もちろんそういうタイプの人間は自分に相容れない意見を攻撃する。

そして、「議論は喧嘩だ」などとおろかなことを叫び、

大声で他人をけなして喧嘩に勝とうとする。

でも、冷静に考えれば分かるように、

この議論の場で仮に勝ったとしてもそれによって真理が曲がることはない。

議論とは互いに相手を尊重し合い、

互いの意見を無批判に受け入れることから始まる。

己が正しいという議論は不毛である。

 

宗教戦争やある宗教の原理主義者による過激な行動の本質を我々日本人は理解しにくいが、

こう考えたら何となく説明できるのかもしれない。

自己の存在を己の神により正当化されている思考体系で、

その神を否定するあらゆる論理が成立し得ないのは何となく分かる。

そして、論理を追求すればするほど遊びがなくなり他者を許容できなくなる。

この思考へ至る過程が何となく恐ろしいように感じる。