ディベート

「ディベートは百害あって一利なし」だと私はつねづね主張している。少なくとも何かを創造する場面においてディベートが役立つことはほぼ皆無だと思っている。理由は単純明快で、ディベートはその定義からして「結論が先にある」からだ。

国会の議論などは最たるものだろうと思う。政党の主張として、初めに賛成か反対かがあってからの議論となる。これが、具体的にその法案に対する是非であれば構わないのだが、野党は、与党の政策に一律反対の態度をとる(ようにしか見えない)。どんな制度であっても良い面も悪い面も併せ持っている。これは制度の性質としてとして仕方ないところもあるかもしれないが、多くの場合には予算などの制限がつくからだろう。無制限に予算があれば、大盤振る舞いができるだろうが、予算に上限があれば、何かを優先し何かを削るという判断が必要となる。もっと言えば、他の政策との優先順位を考えた結果として、その政策自体を削らなければならない場合もある。有権者の希望はさまざまだろう。それを全部叶えることはできない。要するに、どれを取り上げてどれを見捨てるのかを決定することが政治なのだろうと思う。だから、どんな政策にしても必然的に利点欠点は存在する。その欠点だけをあげつらって批判してもまったく建設的議論にはならない。初めに結論ありきの議論は議論ではない。

だからこそ、科学の立場で議論の重要さを訴えなければならない。もっと言えば理科教育の過程で若い人たち、願わくば子供の頃から、議論の大切さを学ばなければならないと思う。それが我々の役割だし、理科教育の使命ではないかと思うのである。自分の考えを丁寧に説明し相手の意見を無批判に聞くことで新しい思想を創造する、その重要さは理屈では教えられない。正確で丁寧な議論の仕方を身をもって覚えてもらうことが大切だし、さらには言語で表現する能力を身につけてもらうこと以外に方法はないと思う。上で「理科教育」と書いたが、小学校までは国語教育の問題がもっとも重大な責任を負うと思う。その上での理科教育だろう。こういう議論にならない理由が本当にわからないのだ。