英訳と和訳

先日、久しぶりのクラス会に参加した。クラス会というものの、私を入れて総勢八人の小規模なものだった。私の知らないところで何回か開かれていたらしいが、私が参加するのは20年ぶりくらいだろうか。

その時、英語の話題になった。英語が苦手だった私が、なんの因果か毎日のように英語を読み英語を書く商売をしているという話をした。「英語(論文)はパッと読めるの?」という質問が出た。もちろん読める。論文を辞書を弾きながら読んでいたら仕事にならない。次に、「英語(論文)もすぐに書けるの?」と聞かれた。「それは無理だ」と答えたのだが、ここが通じたとは思えない。そこにいた人全員が、おそらく高校レベルの英訳と和訳を想像したであろうし、その上で「ああ、主税は英訳が苦手なんだな」と理解したと思う。

論文を読むのは、その意味が汲み取れたらそれでいい。その意味はそこにあるのだから、斜め読みしてでも要点が拾い上げられればいいだけの話である。そういう意味では、英文のまま意味をとっている(わざわざ日本語にしていない)ので「和訳」とは異なる。対して論文を書くという行為は「意味を創作すること」を指す。言いたいことをなんとなく英語で表せればいいわけではない。また、頭の中にある「伝えたいこと」は日本語ではない。頭の中にある「何か」を英語で表現するのだから、英作文(和文英訳)とは異なる。だから論文執筆とは、言いたいことに最も近い英語表現を探す作業になる。論文執筆中は四六時中、誇張ではなく夢の中でも英語を探している。それこそ、どの助動詞を使うのかについても悩む。「mayだと強すぎるかな?mightか、それともcouldか?」という具合で、一つの文章に何日もかけることも普通にある。通勤の時の電車の中でも頭の奥底にある英語を探している。ふと浮かんだ表現はすぐにメモする。研究室についてからだと忘れてしまうからだ。ある表現に思い当たると、そこから前後の文章も続いて出てくる。だから、私のメモ帳は訳のわからない英語でいっぱいになっている。研究室に着いたらそれらをワープロに入れる。電車の中では「いい表現を見つけた」と思っていたものでも、実際に論文の文中に入れると雰囲気が違ってくる。そうすると、それまで書いていた文章のほとんどを書き換えることも珍しくはない。そういうことの繰り返しが私にとっての論文書きなのである。

たぶんクラス会にいた面々は、普通の英作文を想像したのだろうと思うが、その違いはなかなか説明できないから、そのまま話題を変えた。でもあれからずっと、「どう言えばよかったのかな?」と思っている。