信じる?

私は、おそらく「信じる」という言葉の意味がわかっていない。私が思う「信じる」は「信用する」「信頼する」と同じ意味なのだ。60年以上生きてきて、この理解で困ったことはない。だから「意味の修正」ができずにきたのだろう。同じ「信」という漢字も使われているし、日本語の「信じる」には「信頼する」ような意味も併せ持っているのではなかろうかと、あくまでも個人の感覚だが、信じている感覚でもある。

で、日本語の文脈ではあまり困らなかったのだが、英語の”believe”の理解ができない。”believe”も「信頼する」という理解で使っているように思う。要は、”believe”と”trust”の違いが理解しきれていないわけだ。でも、異なる形には異なる意味が生じるはずだから両者は明確に異なるはずだ。と考えてはたと思ったのだが、日本語でも「神を信じる」という言葉が「神を信頼している」との意味で使われているのではないことはなんとなくわかる。ただ、では「信じるってなに?」となる。「神の存在を信じるか信じないか?」に置き換えたら、「信頼する」とは違うことはわかる。この場合の反対語は「疑う」だろう。では、「神を信じる」って「神を疑う」の逆の意味なのかと言えば、「なんかちゃう」気がする。というか、日本人ならともかく、西欧人にとって「神の存在」は当然のことなので、それを問いかけることなどあろうはずもない。だから、存在を哲学的に問う場合も、「神が存在しているのか」ではなく、「神が存在している」ことを自明の理として、その意味を問うこととなる。

「お前を信じてるで」と言われたら、「信用されている」だから「裏切ってはいけない」と私は捉える。ただ、「確信する」となると、「信用・信頼」とは少し異なる意味を持っているように思う。研究の分野だと、「〇〇の仮説を信じる」と言うことがあるし、たまに「橋本モデルを信じている」と言われて喜ぶ時もある。この「信じる」も「信用・信頼」とは少し違った意味を持っているように感じるのだが、拡大解釈すれば「信用・信頼」で説明できないこともなさそうだ。でも、「神を信じる」を「神を信用する」としたらバチが当たりそうにも思う。って考えたら、「信用・信頼」には具体的な対象が必要なのに対して、「真実」の対象は、たとえば推測や仮定とか占いのように、もっと漠としたものが対象なのかな?みたいに思ったりもするのだが、どこかに引っかかりも残る。だって、「神の存在」を「推測や仮定」といった抽象的で漠としたものと考えることは西欧人にとってあり得ない思考なのだから。日常性バイアスってのも、「信用・信頼」というより、「(盲目的に)信じる」に近いように思うし、信じられる意味づけは結局できなかったな。