淘汰と選択3
環境からの淘汰圧によって現在優位を占める表現型がと大勢を占めていれば、それが「標準」となるだろう。「標準」とは、それまでの環境下で最も淘汰圧を受けにくかったものであると論理的には定義できるだろうから、環境が変化すれば淘汰圧の質も変化することとなり、現在の「標準」が淘汰の対象となりうる。大多数を占める現在の「標準」が淘汰された結果として空いたニッチを、それまでマイノリティだった表現型が埋める形で勢力を伸ばすのだが、これは決して環境に適応した結果ではなく、相対的に他の表現型よりも淘汰圧を受けにくかったから勢力を伸ばせたに過ぎないと考える。要するに、あらたな変異が都度生じて自然選択されると考えるよりも、自然選択を受ける個体(群)がかなり小さな割合ながらも集団には常に準備されていると考えるわけである。これは広い意味での「前適応」と考えてもあながち間違っているとも思わない。自然選択は、その定義から遺伝子に係るものではなく個体(群)にかかる。その個体(群)にあらゆるバリエーションがすでに備えられているということである。こう書くと、「自然選択に対応するために」とか「バリエーションを揃えるために」と目的論的に考えられるかもしれないが、決してそうではない。あらゆる突然変異や奇形は一定確率で常に生まれているわけで、それが必然的に個体群や種内の多様性を結果として担保しているに過ぎないのだろう。そう考えれば、新生児の神経ネットワークにしてもそうだが、生物はあらゆる可能性を常備していて、そこから不要なものを淘汰することで必要なものを選択する方法論を利用している。抗体産生細胞も、あらゆる抗原に対する抗体産生細胞が常に用意されているし、多様であるが故に、結果として、環境変化に対応できるだけのこと。そして、この方法論が進化を通じて用いられているだけのことだろうと考える。動物門を構築するような変異は「ゲノムのガラガラポン」が必要で少し規模は違うから、もう少し丁寧な議論が必要だと思うのだが、淘汰圧に関する基本的な考え方は同じと考えても問題ないだろう。
(とりあえず今回は終わります。続きはまたどこかで)