淘汰と選択1

進化の概念に「選択」という考え方は似合わないといつも書いている。昔は「自然淘汰」と言っていたのでしっくり来ていたが、いつの間にか「自然選択」となってしまって進化の概念が誤解されてきたように思っている。というのは、過去に何度も書いた(たとえばこれ)のだが、今回は違う視点から書いてみよう。

マンチェスターの工業暗化でもダーウィンフィンチでも、例は何でもいいのだが、「ゲノムへの変異は中立的に入る」ことから、ありとあらゆる変異が常に起こっていて、現状ではある表現型が優位であるが、それは「優位」であるのではなく、それ以外の表現型が相対的に「不利」なので、そのニッチを現在の表現型が占めているに過ぎないというのがこれまで書いてきた概要である。この考え方自体は大筋で間違えていないだろう。しかし、遺伝子の変異と表現型が直結する場合はこの説明で構わないのだが、複数の変異が必要であったり、あるいは複数の遺伝子同士の関係性が変化しなければ成立しないような表現型の場合、変異のバリエーションが常に起こっていると考えるには無理がある。