公平中立とは

カポエイラの回で書いたのは、選挙報道に関してふと思ったことがきっかけだった。大手メディアの選挙報道は放送法に規制されているという。実際には、放送法はそこまで放送局を縛っていないとも言われるが、でも実際の報道を「検閲」して自分たちが放送される時間が他者よりも短いと文句を言う政党もあると聞くので、放送局としてはどうしても各候補者の放送時間を一定にしないといけないような強迫観念に襲われる気持ちはわからなくもない。ただ、たくさんの候補者や政党に時間などを平等にしゃべってもらうと、全然報じていないのと同じことになってしまうことは確かだと思う。要は、読点を打ち過ぎたら読点がまったくないのと同じになって意味不明の文章になることや、踊りの中に「起こり」を隠すのと同じだろう。報道機関は、むしろ“この選挙はどういうテーマなのか”について、見た目が平等である必要はないから、各社の主張を展開してもらえる方が論点や要点が見えてよほど良いと思う。もっといえば、各社の主張は異なった方がいいし、それぞれの論点で議論を見せてほしい。私たちは、たくさんの報道機関の主張から取捨卓越させてもらう。平等なんて存在するはずもないし、公平中立なんてありうるはずもない。ちょうどど真ん中の報道があったとしても、その少し右の人から見たら左に見えるし、ちょっと左に立っている人からは右だと認識される。そんな「公平中立」を唱えている放送局の倫理観こそが「不平等」を支えているのだと感じる。