読書 3/3

さて、本屋に行かなくなった今、どうやって読む本を探しているのかだが、もっぱらネットの口コミに頼っている。自分と趣味や嗜好が似ていると思う人のブログを読んだり、キーワード検索をして自分に合ったと思われる内容の本を探す。そこで問題が生じる。「奈良の大仏」が度々顔を出すのだ(「奈良の大仏」の意味はこちらをご覧ください)。ネットで候補となる書籍を探すのだが、そのまま購入するのは怖い。本屋で見たら多少は中を眺めてみるし何となくその本の雰囲気は知ることができるのだが、ネットだと書名以外はわからない。だから、ついその書名を検索して「評価」を探してしまう。さすがに内容の核心に触れられているものは読まないが、そこに書かれている感想から内容を想像してしまうことは避けられない。その本を褒めている書評を読むとその本の面白さが伝わってくる。ただ、この「面白さ」とはその書評を書いた人が感じた面白さなのである。年齢も経験も、趣味や嗜好も異なる人が受ける感動を私が同じように感じられるかと言えばそれは甚だ疑問なのだが、そこに書かれている感想が心の中に描き込まれてしまう。そして目的の本を読んだときに「奈良の大仏」が現れるのである。たぶん先入観なくこの本を読んだらもっと面白かっただろうなと思う。ネタバレというのではなく、最初に何らかの方向づけがされたため、その本から得られるはずだった「橋本の思考とその本の内容の融合」が失われてしまうのだ。読後はすごく冷静に「ああ、多分こういう感じなのだろうな」と感じて終わる(似た内容はこちらにも書いてます)のだが、そこに感動はない。すごく勿体無い。でも、この本はネット検索をしなければ出会えなかったかもしれない。ネット検索して失われるものがある一方で、ネット検索しなければ出会えなかった可能性もあるところがものすごくジレンマに感じる。

映画などにも同じことが言える。特に映画は一人でも多くの観客を呼び込みたいからついつい宣伝が大袈裟になる。その宣伝の文句を読んで自分の中にある種の方向性が勝手に作られる。期待感と言って良いのかわからないが、「こんな雰囲気の筋書きなのだろう」とか「こういう匂いが醸し出されているのだろう」という漠としたものが形作られる。そして、多くの場合はその「期待感」は「騙された」となる。もちろん誰も騙していないし、勝手に期待し勝手に失望しただけの話なのだが、「この映画は、この程度までの情報は事前にあった方がいいが、これ以上の情報はなく鑑賞する方が絶対に良い!」と思うことがよくある。研究補助員の守ちゃんは映画が好きのようで、橋本の何倍も映画を見に行っている。研究室でたまたま橋本が見に行った映画の話をすることがあるのだが、話し方に気をつける。上に書いたように、橋本の価値観で「こう見た方が面白い」と思うような話し方をする。もちろん、事前に「見に行くつもり」かどうかを聞いた上で、見に行かないのであれば橋本が思った詳細を語り、見に行く可能性があるのであれば「これ以上は知らない方がいい」と橋本が感じているところは話さない。本の話も同様だが、守ちゃんは読書をあまりしないみたいなので、あまり気にせず話す(もちろんミステリのネタバレはしない)。なんにしても、「奈良の大仏」にならないようには気をつけている(つもりである)。

食べ物屋の話も同様に橋本が行った店の感想を話す。橋本が気に入った店はどうしても感情が入っているみたいで、「そこ行ってみたいです」となる。昨年も「忘年会」と称して三ノ宮に行ったが、この数年わりと通っている韓国料理の店に案内した。いつも話だけは聞いているので、その実物に出会えて守ちゃんも感激した様子だった、こちらとしては「奈良の大仏」になっていないかだけが不安だった。いくら良い店だったとしても本来得られるべき感動が先入観によって妨げられる可能性はいつだってあるのだから。