読書 2/3
本屋が好きである。いや、過去形で「好きだった」と書くべきかもしれない。その理由は、本屋にいかなくなってから長い年月が経っているからだ。本屋には何時間でも滞在できる。入店したらカゴを持ってミステリの新刊書売り場に向かう。次は思想書の売り場だ。さすがに文芸書とは違ってそれほど本の入れ替わりはないが、以前から気になっていた本を手に取って戻すことを繰り返す。最後は文庫本の棚をじっくり見て回る。終わったときにはいつもカゴいっぱいになっている。そして、そこそこの金額を支払う。そこからしばらくの間は読書漬けの日々となる。
本屋には長い間行っていないのだが、いまでも昔と変わらないペースで本を読んでいる。購入量が読書量を上回っているのだろうが、読まずに積まれている本も増加の一途を辿っている。興味を持って買うのだが、気合いが必要な本はついつい後回しになる。私が読むのは大半が本格ミステリか思想・哲学書なので、後回しになるのは思想・哲学書の方である。「今のが終わったら読み始めよう」と思うのだが、今のが読み終わったときには次の「楽で楽しい本」が新たに届いているので、そちらを手に取ってしまうため、思想・哲学書は読まれずにたまっていく。ミステリならのんびり読んでも3日あれば終わるが、哲学書になると丸一日かかっても20〜30ページを読み終わらないこともしばしばだ。数行からなる一文を、己が構築してきた思想とどのように折り合いをつけられるのかに悩む。なんとか折り合いをつけられたらいいのだが、大幅に脱構築せざるを得ない場合も多い。そういう場合には、昔読んだ本の中の一行を探す。その本はそう簡単には見つからないし、その本の中にある目的の一行を見つけるのも至難の業だ。その一行を見つけたら、また深い思索に落ち込む。そんなことをしていると一冊の本を読み終えるのに1ヶ月以上かかる、いや1ヶ月など短いくらいだ。途中で投げ出すことも珍しくない。この場合には、何かのきっかけでその本を手に取るまで放置することとなる。それは、別の本を読んでいるときに訪れることもあるし、ぼーっと妄想しているときにふと思い出すこともある。読書の途中で止まるということは、そこで出会った新しい思想を消化して取り込む(自分が持っている知見の中に整合性を持って入れ込む)作業をしているときなので、とにかく考え続けている。だから当然脳みそには新しい刺激は与えられているのだが、「三歩進んで二歩下がる(三歩下がることも珍しくない)」状態なので読書として見たらまったく進んでいない。こういう理由で、「一生かかっても読み終わらないくらいの本を抱えている」としばしば口にする。死んだときに棺桶に入れてもらうにしても、たぶん入りきらない量の本がまったく開かれることなく放置されているのだろうな。
余談だが、過去に読んだ本を読み返すこともよくある。先日、養老孟司の「唯脳論」を斜め読みした。もう30年以上前に影響を受けた本である。いま読むと、これがまったく受け入れられなくなっている。表現するのが難しいのでここでは書けないが論理展開を許容できないのだ。唯脳論を読んで感動したときから時間も経って、こちらもたくさんの情報を取り入れることで自分の哲学体系を作り上げてきたし、稚拙ながらもいろいろと文章を書いて論理的な思索の真似事をしてもきた。こういう経緯を経た現在、あの頃の自分自身の思想とは一線を画するようになってきたということなのだろう。養老さんも同じだけの年月を経ているので、今の彼が考える論理に触れたとき私はどう感じるのだろうな。