定期試験を考える 2/2

「カンニングペーパーの持ち込みを可とする」議論(これまたはこれ)の時にも書きましたが、定期試験で単語や語句の意味を書かせるのはもったいないと思います。それよりは、底に横たわる本質の部分を問う問題を作ったり解いたりしてもらうことで、生物の理解は格段に進むと思うのです。派生形として、生徒が作った問題を採点し、コンテスト形式で順位をつけて表彰するというのも面白いかも知れませんが、最近は「順位づけ」そのものが差別を助長するとか言われそうなので難しいのかも知れませんね。以前にも書きましたが、作問をすることでその範囲の問題の意味を知ることになります。教科書を読んでいるだけだと、全てが横一列で均一に見える語句にもそれぞれに異なる意味があって、それが互いに絡み合っていることに気がつきません。でも、「語句の意味を問う」のではない問題をいざ「作れ!」と言われたら、その本質を考えざるを得ませんから、これって下手の授業よりも本質の理解には重要ではないかと思うのです。カンニングペーパーを作らせる意味も同じところにあって、ただただ教科書を網羅的にうつしてもカンニングペーパーとしてまったく使用できないものにしかなりませんので、カンニングペーパーをまとめるにも内容の理解が必要であることがわかります。こういう事実に気づかず闇雲に教科書を暗記して定期試験に臨んだところで、ヤマが当たるか外れるかだけの問題に終わります。そして、たとえヤマが当たったにしても、そこを理解していて本番の試験でもその範囲の問題が解けるという保証はまったくありません。というか、その定期試験が終わったら瞬時に忘れるのではないかと感じます。

なぜカンニングペーパーを作るという発想になったのかですが、内容を理解していなければ、「教科書の持ち込み」や「(反則の意味での)カンニング」をしても解けない問題を先生は作るべきだ、などと思ったところから始まります。この方法だと、理解している生徒は解けるが理解していない生徒はまったく解けない試験にしかなりません。では、その問題を解けるためにはどうしたらいいのかと考えたら、教科書を盗みみても意味がないような問題を解くためのカンニングペーパーを作ったらいいと思い至ったわけです。そういうカンニングペーパーを作れたら、その生徒さんはその分野をきちんと理解できているはずだと思いました。

すべては非現実的なのかも知れません。先生方からは、所詮は素人の戯言だとお叱りを受けるのがオチなのでしょう。ただ、橋本が考えた方法は無謀でも、このような方向から考えることが今後重要になってくるのは間違いないと感じています。ある先生に、「試験問題に語句の意味を書かせるのは、そこだけでも点をとってほしい(ほかの問題は難しくて解けない)」という切実な思いがある」と言われたことがあります。要は、0点の生徒を出さない苦肉の策みたいなものということです。平均点が6割くらいなければ試験として成立しないみたいな制約があるのかも知れませんし、0点が続出したら成績がつけられないのかも知れません。そういう現実を橋本が知りません。知識としては知っていても、我が事のように感じた経験がありません。だから、こんな軽薄な理想論を書いているのかも知れませんが、生物学の研究者として「生物学の根底に流れる考え方ってかなり面白いよ」という気持ちがあります。教科書のように無味無臭で表面的な知識も一層深いところに入ってけば、意外と難しくないだけではなくかなり面白い考え方が潜んでいます。教科書にはその面白さを伝えるだけの場所がないからあのようになっているだけで、決して生物学が面白くないわけではないのです。たとえ受験で生物を取らないにしても、その面白さは今後の人生を送る上での糧になると思っています。だって、私たち自身が生きものなのですから、生きものから学ぶことが多いのは当たり前だと思うのです。