続・ニッチ?

同じ動物門の中にいる生きもの同士は相同なゲノム体系を共有する親戚であり、

他の動物門とはまったく異なる体系を持っていると考えている。

ただし、カンブリア爆発以前に成立した「モノ」は共有しているため

ところどころで同じメカニズムを利用していることはあろうし

そもそも細胞内の環境、たとえば代謝経路など、は同一と言えるはずだ。

動物門の根幹は共通の形態・体制によっているわけで、

それはすなわち形態形成の問題、発生メカニズムの問題として考えるべきだろう。

だから、カンブリア爆発の問題は、

カンブリア紀にどれだけのパターン(種類)の発生プログラムを

生物が拡張できたかに決定的に依存しているのではないだろうか。

そして、その考え方を最もよく説明できるのがソフトモデルなのだろうと思う。

 

動物門の中では相同性の議論は可能であるが、

動物門の間では相似の議論しか成立しないのは、

ゲノム体制の根幹が、すなわち発生プログラムがそもそも異なるからであろう。

だから、互いに似ている構造があるとすれば、

それは系統進化的に似ているのではなく、

用いているシステム自体が似ているだけのことだと思う。

すなわち、共通の祖先からそのシステムを共有していると考えるのではなく、

たまたま共通の(あるいは似た)システムを用いたから作られる形も似ただけのことだろう。

まあ、遺伝子や遺伝子間の基本的な関係性はカンブリア爆発以前から存在していたわけで、

それらが、カンブリア紀の極端な環境下で「ガラガラポン」でできあがった

新しいシステム、すなわち「ソフト」がここの動物門(の祖先)に相当すると考えれば

特定の構造を作るプログラムの一部は共通かもしれないが、

そのプログラムが特定の構造を作るように用いられたのは偶然であるとするしかない。

 

だから、ソフトモデルの議論は、ソフトが成立できるか否かの問題であって、

そこから生存ができるか否かの問題はソフトモデルに依る必要はないのだろうと思うのだ。

また、この場合の「ソフト」とは「発生プログラム」と言い換えられるようにも思う。

大進化と小進化という言葉をここで用いるのが正しいのかわからないが、

少なくとも動物門の成立過程において議論されるべきは、

生きものを形づくるための新しい発生プログラムの獲得であって、

逆に、動物門の内部での進化に関してみれば

同一のシステム(発生プログラム)の中での下位のシステム、

あるいは要素の変化を議論するのが正しいのではないだろうか?

 

脊椎動物を定義すると言われる神経堤細胞は当然のことだが脊椎動物にしか存在しない。

しかし、その成立の鍵を握る遺伝子はすべてショウジョウバエが持っている。

すなわちその遺伝子自体に意味付けすることなどできるはずはない。

これを説明するのが「ソフトモデル」の根本概念だろうと思うのだ。

(つづく)