ニッチ?
内部淘汰の問題については何度となく書いてきたから
このHP内で「内部淘汰」をキーワード検索して頂きたい。
そうすれば橋本の書いた複数のブログ記事に出会い、
その中では「内部淘汰」と言う概念を橋本がどのように考えているのか
さまざまな文脈で説明されていると思う
(たとえばhttps://hashimochi.com/archives/6412)。
「内部淘汰」以外の、本文中で用いられるさまざまな言葉についても
同様に検索をしていただければ橋本の用いる概念はご理解いただけるだろう。
文中で用いられる言葉には橋本特有の意味が込められているものも多く、
その理解無しには「???」となる可能性が多分にあるので
できれば過去のブログ記事もご参考にお読みいただきたい。
さて、宮田先生の「ソフトモデル」にしても
「内部淘汰」の文脈で語られるべき概念だと思っている。
しかし、宮田先生とは何度も議論しているのだが、
宮田先生はソフトモデルを自然選択に乗せて議論をされるように感じる。
議論の最中に「ニッチ」が上がるからそう感じるのである。
カンブリア爆発のとき、「なんでもあり」な状況でゲノムは変化しただろう。
そして、そのゲノムの変化にかかる淘汰圧として内部淘汰が重要であると思っている。
すなわち正常に発生過程を進めるのか?正常に子孫を残せるのか?がポイントと言うことだ。
生きものが、ゲノムの強烈な変化によってどんな形になろうが、
それが個体発生ができ子孫を残せる限りにおいて問題はないとの考えである。
その上で、その変異が残れるのかについては外部淘汰(自然選択)に依るとする。
極論すれば、内部淘汰とは個体発生から配偶子形成を経て受精へと至る
いわゆる「発生過程」が真っ当に行なわれるか否かを検証する際にかかる淘汰圧であり、
その発生過程が何世代も繰り返されるか否かの検証の際にかかるものが
外部淘汰(自然淘汰)という考え方である。
だから、ゲノムの変化にかかる一義的な淘汰圧は内部淘汰であり、
それがある意味では絶対的な意味を持っていると考えるわけだ。
生存にとって絶望的な環境変化が起こったであろうカンブリア紀においては
まず内部淘汰によってあらゆるシステムの可能性を試し、
そこで残ってきたものが外部淘汰の試練を受けるということが必須だったと思う。
しかし、宮田先生はソフトモデルの説明に際し、
たとえば温暖化により氷が溶けたことで先住者のいない新しい環境が生じ
「変な生きもの」でも生存できるようになったと説く。
ひ弱であっても競争のない環境だから生存できるという考え方だ。
この説明自体に異を唱えるつもりはないのだが、
この説明とソフトモデルの概念に違和を感じるのだ。
種分化あたりの話であればこれで構わない。
くちばしの形や味覚の変化など、
種分化には自然選択が大きな要員であるのは自明の理だから
生存競争の考え方は違和感なく入ってくる。
ゲノムのシステム(体系)自体は変化せず、
局所的な偶然の変化が新しい環境の開拓に働くと考えるのが自然だからだ。
しかし、カンブリア爆発とはゲノム体系そのものの変化である。
新しい体系が成立可能かどうかを試されている。
その結果として残ることのできたものが現存する動物門の起源であり、
動物門のアダムとイブだろうと感じるのだ。
だから門をまたぐ進化の議論には私はかなり否定的である。
(つづく)