内部淘汰と外部淘汰

これについては様々な説明をしてきたが

説明する側としてもなかなか明確に言えていないと感じる。

そこで、普段ことばで言っているが書くとマズいかなと思っていることを書いてみる。

 

外部淘汰とはそのまま自然淘汰と考えて良いから説明は難しくない。

私が下手なことばで説明する必要などない。

ダーウィンを読んでもらえればそれで足る。

 

そこで内部淘汰である。

内部淘汰とはたとえば遺伝子などゲノムの要素同士の関係性であると私は言う。

それはそれで何もおかしくない。

ただ説明としては理解しにくいそうだ。

では、とにかくゲノムというモノの意味づけを一旦やめてしまってはどうだろう。

ゲノムというモノは自己複製をする単位以上のものではないという感じで、

これ以上に何も言わないということである。

そうすると、「自己複製させるため」ということがゲノム(の進化)の唯一の存在意義となる。

ゲノムは今のところDNAが化学的な正体であると言われている。

そしてDNAは一定の確率で変異が入ると考えられている。

したがって、何らかの偶然で自己複製できたDNAが何らかの変異を受け

自己複製能力が無くなったらその時点でゲノムではなくなる。

この際ゲノムという言葉はどうでもよい。

複製できないのだからそのDNA配列は後世に残り得ないだけの話である。

そこに再び何らかの変異が生じたとしよう。

それによって前段の変異が補完され、

あるいはそれまでとはまったく異なる仕組みで自己複製が可能となる。

要するにゲノムの進化とはこの繰り返しであるということだ。

この文脈で内部淘汰を考えようという話である。

すると、とにかくシステムとして自己複製能力を維持し続けるということが

ゲノムの使命のようなこととなろう。

それを維持できる方向の変異だけが残るということになる。

もちろんここには自己複製能力の高さや自己複製速度なんてのも重要だろう。

このシステムの管理体制こそが内部淘汰と考えられるのではないか?

だから、自己複製の正確さはシステム維持にとっては最も重要なこととなろう。

しかし、逆に別のシステムを考慮すれば

むしろ不正確さこそが自己複製能を間接的に高めているとも考えられる。

したがって、自己複製能力という意味づけに関して言えば

そこに乗り物の形状や機能は一切考慮に入れなくても構わないということになろう。

どんな乗り物であろうがシステムを維持できる環境さえ与えられればそれで良いということだ。

 

ここで問題が生じる。

すなわち自己複製の定義からして乗り物の設計図も自己複製されなければならない。

したがって、システムを維持する意味で、

DNA複製機械と同等の意味でその乗り物も自己複製のシステムに組み込まれているということである。

だから、ゲノムの乗り物を作る「情報」がゲノムに載っているという事態が生じる。

ここまではシステムとしての自己完結で話は済ますことができそうだ。

しかし、この乗り物は生きものとして外部環境という前線に対峙する。

その際に乗り物の安定性や精度、あるいは強さなどにより、

乗り物自体の生き残りの確率に影響する。

これは単にかたちのみの議論ではなく、

その働き、すなわち社会を作るかどうかといった行動なども関係する。

この行動の規範もゲノムに書かれているということとなる。

これがすなわち外部淘汰となる。

 

こう考えると外部淘汰と内部淘汰を明確に分けることはできない。

ではなぜこれまであえて内部淘汰の話をしてきたかということだが、

言い過ぎを覚悟して話を進めると、

ダーウィンの自然淘汰が乗り物の形状(とその機能)に偏り過ぎてきたように思えるからである。

だからこそ、ゲノムを体系と捉え、その立場で見直した時に

内部淘汰、すなわちシステムの維持のみに関わる淘汰圧について思考しなければならないと思ったわけだ。