外国語の勉強法は?
意味の階層性について考えていますが、
頭がぐるぐるしていてなかなかまとまりません。
書きかけの項目だけが増えていきます。
で、関係のない独り言を。
初めてアメリカに渡り住んで半年ほど立ったある日のこと
最初の数ヶ月同じ研究室にいた女学生から研究室に電話があり
たまたま私がその電話をとりました。
彼女は、特に用事があったのではなくって
単に誰かと話がしたかっただけのようですが、
そんなことに思いも至らなかった私は
誰か特定の人と話をしたいのだろうと考えました。
普通,電話がかかって来たらそう思いますよね?
で、「誰と話がしたい?」って聞こうとして
あまり英語の話せなかった私はとっさに
“Who are you willing to talk to?”と口に出しかけました。
しかし、Who are youと話したところで
「あれ、be willing toってこの使い方で良かったんだっけ???」
などと考えがよぎり、言葉が続かなくなったのです。
皆様はもうおわかりですよね?
そうです、「おう、ウエン。オレちから。久しぶりやん、元気?」
などと電話を取って最初にいろいろと話したあげくに
「で、あんた誰?」って聞いたのですから・・・。
で、よく考えるとこの現象ってよくあるんです。
英語の聞いている時に学校で馴染んだ構文や熟語が耳に入ると
それだけに脳みそが捕まってしまい全体が頭に入らなくなるってことや
何かを話そうとする時に構文や熟語を組み立ててしまうことが。
これこそ、言葉のゲシュタルト崩壊が目の前で起こっているんですよね。
何も考えずにとりあえず言っちゃえば良かったんです。
それを、要素に分解しちゃったから・・・。
で、英語の勉強法は少なくともゲシュタルト崩壊を起こさせないようにすることが、
何をおいても一番大切なことだろうと思うのです。
私の「ことば論」もその思いから書いた雑文です。
意味を持つのは文章ですから、少なくとも文章全部を一気に話せるようにする。
途中で熟語や構文を考えた瞬間に一切の意味は霧散するってことです。
私たちが日本語を話す時に、考えながら話す人はいませんよね。
逆に考えながら話しをするとしどろもどろになることが多い。
たぶん多くの人が経験していることだろうと思いますが、いかがですか???
コメント欄へたぶん初の書き込みです。
こういう時の名前ってペンネームでいいんですよね?
たぶんもうお分かりかと思いますが、「かたちの会」も好きですが、そのあとの2次会も大いに楽しみにしている妊婦です。
今日は検診のためお仕事がお休みだったので、かねてから盛り上がっていると聞いていたので、ふらりと訪ねてきました。
とても一気には読めない量と内容になっていましたが・・・・。
なるほど、ゲシュタルト崩壊の例がでていましたね。
今日は一日、書類書きに頭を悩ませていました。まさに、私は今日一日ゲシュタルト崩壊を繰り返していたのではないでしょうか。
日常生活で話をするときには、もちろん構文などは何も考えず話していますが、しかし内容や起承転結(オチ?)など考えながら話してる気がします。大阪人の性でしょうか。。。
構文のことは考えてなくても、内容についてブレずに話すことを考えるとしどろもどろになるのはまだまだ若いからでしょうか(笑)。
これからも皆さんとの会話で会話力を磨かせてください。
newtさん,母子ともにお元気ですか???
「日常生活で話をするときには、もちろん構文などは何も考えず話していますが、しかし内容や起承転結(オチ?)など考えながら話してる気がします」というのはよくわかります。で、横山やすしの言葉を思い出します。「アドリブとは、何度も稽古して身に付いたものを、その時の状況に応じて使い分けることや」です。よく、アドリブとは天性の感性から導きだされる霊感的な才能のような感覚で語られますが、それは違っているとの主張です。私はこのやっさんの主張に激しく賛同します。だからnewtさんの言う「起承転結」のくだりでは、あらゆることを表現する言葉は人間誰しも既に持っていて、それらをどのように組み合わせたら「ウケる」のかをその場の状況で判断するってことなのかな?って思います。そして、その判断の仕方に関西人特有のものがあるってことなのでしょう。話し上手な人は、もちろんポケットにたくさんのもの(表現)を持っていますが、持っている量というよりもむしろ持っているものの中から何をどのように出してくるかの判断が上手なのでしょうね。知識は豊富だけど何言っているか分からない人って結構いますもんね。
「文は語彙や語句から構成されるのにこれらの要素に分解すると意味をなさなくなる。」こうした背景には「意味の階層性」があると思うのですが、このことに気づいた人って本当にすごいですよね。
ところで橋本さんは「意味の階層性」を説明される際に、「下位の要素が「閉じて」上位の構成要素になったとき、下位の要素はその意味を「失う」」といった表現を使われますが、この表現は私にとって非常にわかりやすく、「意味の階層性」の本質をついていると思うのですが、これは橋本さんのオリジナルな表現なのですか?もしこうした表現をして頂いていなければ、私は「意味の階層性」をもっと表面的にしか理解できていなかったと思います。
とにかくこの問題は私にはハードすぎて頭がクラクラしています。
「その表現」は何かからの引用ではなく、私の頭の中で出来上がった「オリジナル」です。ただし、私も様々な本を読んできましたし、いろんな人たちと話しをさせて頂きましたから、周囲からのあらゆる影響は受けた上での表現であることは間違いありませんので、本当に「オリジナル」と言っていいものか分かりません。ただ、このような表現自体には今まで出会ったことはありません(もちろんどこかに既に存在している可能性は否定しません)。
この表現はゲノムを考えている時に浮かんできました。生きものは機械ではないもっとしなやかな何かだ!と考えるに至り、生きものが出来上がるための情報はゲノムであるという思考から、では機械論とかたち論は何が違うのだろう??と考え始めると必然的にこの考えが生じます。最下位の要素が異なる階層のかたちにいつまでも意味を持ち続けているとギシギシしたぎこちないというか「融通の利かないかたち」しか出来ない訳で、だからこそぎこちなさをどこかで吸収するバッファーのような働きがなければならない。これをかたちに求めたのです。かたちが一旦閉じたら、そこに下位の要素の意味は影響をしないという風に・・・。この考え自体は生きもの(ゲノム)を、ある一面においては、上手に表現できていると私は思っています。で、ここから抜け出せないので現在思考が堂々巡りをしているのです。以前にも書きましたが、細胞を要素としてその集団や社会行動を考えなければ個体発生は理解できないと言うのは良いと思うのですが、問題はこの「要素」がいきなり性質を変えてしまうことです。細胞が「分化」したら異なる種類の細胞になりますから、その時点で上位のかたちに及ぼす意味は異なってしまいます。この「矛盾」はおそらく時間軸が入り込んできたせいかもしれないと現時点ではとりあえず考えてしまいます。かたちを考える時には時間の概念を取り込めないと養老さんは書いていますが、その根本的な問題に直面しているのかもしれない。
余談ですが、このように考え始めると面白いのは、個体発生ではまともに時間軸を考慮しなければならないのに、それが系統発生(進化)を考える時は結構無視できそうな気がするところです。時間が長過ぎて概念的に無視できるのかもしれません。だから、ゲノムをより直接的に扱うのなら個体発生より系統発生を考慮しなければならないのかもしれませんね。というか、歴史的に見ても発生とゲノムの関係を言い始めたのはせいぜいこの20年くらいのことではないでしょうか??で、本質的に壁を打ち破るには、ゲノムのかたちを時間軸において考える論理を打ち立てることなのでしょう。細馬さんがいう「かたちの変化のかたち」を正面から扱わなければならない・・・難問ですね。
かたちの会よりも小さく、積極的に意見を言える数人で机を囲んで「カレンダー裏ディスカッション」をしたら何か見えてくるかもしれないけど、こういうのを企画するのは難しいんですよね。
「かたち」について少しわかりかけてきた気になっていましたが、「機械論とかたち論」、「ぎこちなさをどこかで吸収するバッファーのような働き」、「かたちを考える時には時間の概念を取り込めない」…などこのコラムを読んでやはり「かたち」について何もわかっていないことを痛感しております。「橋本語録」を通して少しずつ勉強していきたいと思っておりますので、これからもどうぞよろしくお願いします。
いやいや、だからね、そうじゃなくって・・・・。